映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

オデッセイ

達観 

 前回に続いて、極意を観た感じだ。一見して、軽い、明るい、シンプルな作品。話の設定や内容は結構複雑なことをやっていいるはずなのに、訴えてくることはシンプル。自分を信じて諦めず、前向きに今できることをやる。でもこれって、宇宙飛行士だけの特殊能力ではなくて、全ての人生の極意じゃないか? 

 リドリー・スコット監督はすこぶる多作な監督だ。初の監督作品の前にすでに数多いCM作品を手がけていたという。wikipediaによれば手がけたCMは1900本に及ぶというからすごい。監督の作品リストを眺めて欲しい。よく知られた、「決闘者/デュエリスト」、「エイリアン」、「ブレードランナー」、「グラディエイター」などからのイメージだけではおさまらない、多彩さだ。けれどどれも骨っぽい。しっかりした作りの作品ばかりだ。だから、私は個人的にも彼の作品が好きだ。なんだか、今回の「オデッセイ」、こんなにたくさんの作品を作ってきた監督の達観のような気がする。「やっぱり映画はこれでいいんだよ。」と言われているような気がするのだ。でも、これでいいんだという作品のシンプルのレベルが高すぎる。剣の達人が「ただ、切り下ろすのみ」と言っているのと同じだ。並の監督では真似のできない技だ。こんな作品を観たなら、また、ニッコリ笑って立ち上がりたくなる。「やっぱり、人生これしかないんだね」って。みんな、そうでしょう? 

 作品を観たあとでは邦題に苦言を呈したくなる。原題のほうが全然良い。そのほうが主人公ワトニーをよく表している。興行成績を考えて作品内容に誤解を生みそうな原題よりもキャッチーな邦題を選択したのだと想像するけれど、鑑賞後では邦題の意味の無さに悲しくなる。みなさんはどうだろう。 

マイ・ファニー・レディ

人生の帰結 

 この作品はある女優がインタビューに答えているところから始まる。彼女は記者に「魔法を信じる」と、そして「ハッピーエンドが好き」と何度も答える。ここを見て古い映画ファンなら「もしかしたら?」と思うだろう。私もその内の一人で、見終わったあとには迷わずパンフレットを買った。確かめたいことがあったからだ。そしてしみじみと納得したのである。 

 原題のShe's Funny  That Wayは古いジャズナンバーの題名でもあるそうだ。「もしかしたら?」を確認するために、原題にもあたってみたのだ。その歌詞についてはその道の方の話に耳を傾けたい。勝手にご紹介してしまうが、お許しいただけることを信じて以下を参照していただきたい。きっと、みなさんも納得を深めていただけると思う。 

 

 INTERLUDE by 寺井珠重 

 ”ジャズクラブの片隅から…” 

 対訳ノート(38)「夫婦善哉」の味 She(He)'s Funny  That Way  

 http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2013/08/38she-hes-funny-that-way.html 

 

 ここで言う彼女とは誰だろう?もちろん、主人公のイジーのことでもあるけれど、彼女を中心としたラヴ・コメ・ファンタジーの裏にもう一つのピーター・ボグダノヴィッチ監督の思いがしみじみと伝わってくる。彼女とは誰か?この答えを知るには監督のこれまでの人生を振り返ってみることが必要だ。私と同様、パンフレットを購入した方は監督のプロフィールをもう一度確認して欲しい。パンフレットがない方は、「マイ・ファニー・レディ」のオフィシャルサイトに同じく監督のプロフィールが紹介されているのでそちらの方を。 

 

 マイ・ファニー・レディ 公式サイト 

 http://www.myfunnylady.ayapro.ne.jp/director.html 

 

 

 そして、さらに以下を参照して欲しい。 

 

 Real Sound 

 映画>作品評 

 「マイ・ファニー・レディ」に漂う”優しさ”の由来は? 

 ピーター・ボグダノヴィッチ監督の過去からの考察 

                  松崎健夫 

 http://realsound.jp/movie/2015/12/post-601.html 

 

 これでみなさんも監督の人柄とその背景の大筋が理解できたと思う。私もこれほど詳しくは知らなかったので松崎健夫さんの解説は大変参考になった。ここから、彼女とは女性たちと監督の人生のことであろうとは誰しも理解できる。だが、監督の人生をこれほど詳しく知らなくとも、「この映画、もしかして?」と古い映画ファンに想像させる要素がもう一つあるのだ。 

 

彼女とは 

 ピーター・ボグダノヴィッチ監督は抑揚にあふれた私生活だけではなく、その創作においても、安定したヒットメーカーという事はできないだろう。パンフレットにもあるように低迷の時期もあったようだ。低迷の原因は個々の作品それぞれに存在しただろう。ただその視点をもう少し俯瞰して見ると、そこには世界と映画の大きな流れが原因としてあったのではないかと思えてくるのだ。時代が彼の作風に影響しなかった、または時代が彼の作品の評価に影響しなかったとはいえないと想像できるのだ。 

 パンフレットの田中文人さんの解説によると監督は「ラスト・ショー」(71年)、「おかしなおかしな大追跡」(72年)、「ペーパー・ムーン」(73年)とヒットを続けた後、79年の「セイント・ジャック」(未公開)で好評を得るまでは失敗続きだったようだ。この間の監督の作品は日本では未公開のものばかりのようだから、私にも本当のところはよく解らない。けれど、この監督の不振時期に先立つ66年頃から76年頃までの10年間という時期はアメリカの映画史の中でも特徴的な時期だ。だから、この時期に映画をよく見ていたファンはピンと来るのである。その特徴とはアメリカン・ニューシネマの台頭である。この時期、それ以前の作品とは明らかに作風の異質な作品が現れ、大ヒットする。少し、代表的な作品を挙げてみよう。 

 

1966 

 「バージニア・ウルフなんて怖くない」 

 「逃亡地帯」 

1967 

 「夜の大捜査線」 

 「卒業」 

 「俺達に明日はない」 

1968 

 「2001年宇宙の旅」 

1969 

 「真夜中のカーボーイ」 

 「イージーライダー」 

 「明日に向かって撃て」 

1971 

 「バニシング・ポイント」 

 「ダーティハリー」 

 「フレンチ・コネクション」 

1973 

 「時計じかけのオレンジ」 

1976 

 「タクシードライバー」 

 

 これは先立つ60年代初頭から69年までにフランスを中心として起こったヌーベル・ヴァーグ(新しい波)の影響なのだが、それを産んだ世界的な時代背景がアメリカ映画にも大きく影響している。この頃といえば、ヌーベル・ヴァーグの中心地であったフランスではアルジェリア戦争があり、アメリカでも人種差別撤廃運動やベトナム戦争で社会は大揺れに揺れていた。日本でも日米安保条約をめぐっての激しい学生運動が起こった時期である。アメリカはベトナムでの初めての敗北感に打ちひしがれていた。俯瞰してみれば第二次世界大戦が終結し、アメリカを中心として世界に対する捉え方において帝国主義的な力ずくでの植民地政策に対する疑念が起こり、反省と修正の必要に迫られている時期である。大衆の意識も特に若者たちの意識が体制への批判に傾いていた時期でもある。そのような時代背景からフランスのヌーベル・ヴァーグはこれまでの映画の歴史遺産を踏まえながらもそこにとどまらない、作家の選ぶ一つの表現形式として映画を発展させようとしたものだった。アメリカでも同様に監督の役割が制作現場を統括するだけでなく、表現形式としての映画の創作を統括するものとする映画製作が行われるようになってきた。ここでは映画はまず商品であると同時に監督を中心とした表現者の作品であることの意味合いが強い。上記の作品を眺めて共通するのは、その時代までの社会通念に対する疑問とハリウッドエンディングの否定だ。この傾向は1977に「ロッキー」が登場するまで続く。 

 さて、これらの作品をピーター・ボグダノヴィッチ監督の作風と重ねてみよう。皆さんはどう思うだろうか。皆さんがアメリカン・ニューシネマの只中にいるとしたら、彼の作品をどう思うだろう。彼は時代に戸惑ったのだろうか?それとも迷ったのか?当時の彼の作品に未公開が多いため、私に答えはない。しかし、今回の「マイ・ファニー・レディ」を観る限り、彼はここにたどり着いたのだというように思える。彼女とはイジーのことであると同時に、映画のことであろうと私は思う。監督はここへ帰ってきたのだ。紆余曲折を経て尚、自らとともにあり、自らの人生そのものである映画では魔法は信じられるし、やはりハッピーエンドが良いのだと。 

 ピーター・ボグダノヴィッチ監督は批評家でもある。批評家から監督になったといえば、フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールが有名で二人共、言わずと知れたヌーヴェル・ヴァーグの旗手である。これも今となっては少し気の利いた洒落のようだ。 

 

参考文献 

熊本大学映画文化史講座編 「映画この百年・地方からの視点」 

町山智浩著 「〈映画の見方〉がわかる本」 

明けまして、おめでとうございます!

 本年もよろしくお願いいたします。 

 今年も初詣に行って来ました。

 今年の初詣は千葉劇場で「マイ・ファニー・レディ」ですね。良かったぁ!感激とか感動とか言うのではなく、しみじみ「良かったぁ〜」と心に残る良作でした。

 なぜそう思えるのかというのは後で作品評として書くとして、初詣に行こう!と思い立って今年で2年目。それまでは色々あって、お正月でも、余裕がなかったんですね。それではイカンと、自分に合った初詣で新年のスタートを切ろうと思ったわけです。で、2回続けて素晴らしい作品に当たりました。

 昨年は、テアトル新宿で「百円の恋」。これ、好きです。ボクシングが題材で同じ系統の作品では「ロッキー1」と「クリード チャンプを継ぐ男」の間に割って入るだろうと思っています。そして去年はいい年でした。

 プレイベートの問題は昨年の前半でピークを迎え、苦しいながらも乗り越えることが出来て、その後、その隠れた大きな原因を見つけ、解消することが出来て少しずつ光が見えてきた気がします。その中でブログを始め、曲がりなりにも続けることが出来ました。

 これはもう一つ、クロームブックのおかげ。クロームブックの”かる~い”イメージに惹かれて思わず購入したところ、クロームブックとクラウドとの組み合わせが自分のスタイルにピッタリとハマってしまいました。「なんだぁ、これでいいんだ」と思ったら、映画に対する考え方も、ブログへの取り組み方も、肩の力が抜けて「やりたいようにやっていれば、自然と落ち着くところに落ち着くんじゃないの?」と思えてきたんですね。好きな映画が楽しめる。これは、昨年の大きな成果でした。 クロームブックとクラウドはホントの意味でのノート感覚。ノートと表現とその整理、保存をシームレスに手軽にたった1つで繋ぐことができる、オススメの道具です。

 今年の初詣も素晴らしい作品に出会えました。きっと今年も良い年になるはずです。 

 皆様も2016年が素晴らしい年でありますように! 

クリード チャンプを継ぐ男

シリーズ第1作の味わい 

 正当な続編というのは正しい。

 2作目以降の演出過多なヒーロー物語と言うよりは1作目と同様の練習から試合に望むプロボクサーとしての側面と自身のあり方に悩む人間としての側面が平行して描かれる比較的よく出来た人間ドラマである。

 出来としては1作目は別格として、その次に良いのではないかと思わせる。老いたロッキーが感慨深い。 

スターウォーズ フォースの覚醒

半分残念 

 さて、この「フォースの覚醒」については、特にエピソードⅣからのファンは複雑な気持ちだと思う。なぜなら、映像面での出来は上出来といえるものだけれど、内容についてはもっとやりようがあったのではないか?と、疑問を持たざるをえないからだ。理由については、以下を参照していただきたい。 

 

前田有一の超映画批評」 

http://movie.maeda-y.com/movie/02044.htm 

 

 前田有一さんは今、最も解りやすく、率直な映画批評を書いている批評家の一人だと思う。私もほぼ、同じ感想を持った。やはり、スターウォーズシリーズには過去作を上回る驚きとワクワク、ドキドキを期待してしまうのだ。 

 ただ残念ばかりではない。前田さんの言うように、前半は盛り上がる。昨日までにTVで過去の作品を第1シリーズ、エピソードⅣからⅥまでを見返した方も多いと思う。それで、まず感じるのは特殊効果の違いだ。第1シリーズの特殊効果はCGはほとんど使われていないだろう。セットによる実写とフィギュアによるアニメーションとの合成がメインで、いわゆるSFXというやつだ。この方が現実の手触りのようなものがあるがその動きはやはりぎこちない。第2シリーズ、エピソードⅠからⅢまではCGによる特殊効果が主で、こちらはVFXというやつ。この3作では登場人物よりそちらが主役と言ってよいほどだ。表現は格段に緻密で滑らかになったが、なんだか現実離れしていて、以前の手触り感のようなものは失われてしまっている。この流れの中で今回の「フォースの覚醒」を観ればセットと特殊メイクと実際に作られたBB8などの実写部分とCGとが非常にバランスよく融け合って3D撮影の効果もあって、奥行きも広がりも手触り感さえある、好感のもてる映像となっている。特に前半、墜落した戦艦の中で部品を集めるレイ、遠景に墜落した戦艦、手前にレイと言う構図がいくつか出てきたが、3Dの劇場スクリーンに最も適した素晴らしいものとなっている。 

参考:今さらですがVFXとはなんだ論  

http://area.autodesk.jp/column/trend_tech/vfx/whats_vfx_1/ 

 これだけ表現技術が進歩しているのに、内容がエピソードⅣの焼き直しでは、やはり昔からのファンとしては納得がいかないのだ。でも、レイもBB8もキャラクターとしては成功だと思う。だから、次回作では、映像も内容も、冒険して欲しい。 

亜人 第1部 ー衝動ー

面白い主人公の性格設定 

 通常は未熟で感情的な者が経験を積むことによって冷静かつ論理的に成長する話が描かれることが多い。しかし、この物語は逆に他人に共感できないもの=社会性に欠ける若者の成長の物語だ。この方が今の若者の共感を得るのだとしたら、社会をよく反映した物語だといえる。ただし、論理的であることと冷静でいられることとは同義ではない。彼が窮地に陥った時にも冷静に論理的に考えられるのはやはり物語だといえるが、そこは大目に見ても良いほどに話は面白い。 

 

対象を絞った潔さ 

 「Pan」、「リトルプリンス」のときに対象を絞りきれていないと書いたが、日本のアニメーションの場合は漫画を原作としている場合が多いため、その制約が端からない。漫画は対象読者が非常に細分化されている。そのため、その対象にあったコアな題材を設定することができる。漫画ファンは厳しいから、アニメ化に求める原作に対する忠実度は高い傾向にある。この2つの要因から、日本の漫画を原作としたアニメは漫画のやりたかったことをアニメで効果的に表現することに重点を置くようになったのではないか。原作は未読だが、このアニメ作品の独特の持ち味は原作の良さをアニメ化によって失うことのないよう十分に配慮されたものに違いない。そして、この対象を絞った潔い作りは、私のような新参者のオヤジでも十分に楽しめるものだった。主人公がどのような成長を果たすのか、つまりは作者が今の若者をどのように捉えているのか、TVシリーズも含めて楽しみなのである。 

リトルプリンス 星の王子さまと私

子供大人のファンタジー 

 先日、実写ファンタジー「Pan」とアニメーション作品「リトルプリンス 星の王子さまと私」という2つの作品を続けて観た。子供を対象とした作品におけるデフォルメということに興味があって、2つの作品を比較してみたかったからだ。しかし、2つを観たあと私が思ったのは「果たしてこれは子供向けなのか?」という疑問だった。狙いとしては児童、生徒からその親の世代くらいまでを想定しているのだろうが、子供に対しては難しすぎ、大人に対しては子供っぽく、中途半端なのだ。多分、喜んで観るのは中学生から20代くらいまでの大人になりきれていない人達だけで、かえって顧客の幅を狭めているのと同時に作品の内容を散漫にしているのではないかと思えるのだ。実際に、観客に子供は少ない。このことは日本のアニメの作り方とは概ね反対に位置すると思う。日本のアニメは最初から狙いを絞ることでやりたいことが出来ているようだ。例外はジブリ作品だがジブリについては今回の2作品と同様の比較的幅の広い対象を想定しているものの、商品としての映画というより、作品としてやりたいことをやる側面が強く出ている。見かけは幅の広い鑑賞者層を対象にしているが、実は作品によってそれぞれ狙いを絞っているだろう。「となりのトトロ」と「紅の豚」と「風立ちぬ」では製作年代が違うとはいえ、同じ鑑賞者層を対象にして作られているとは思えないし、逆にそこが受けているように思える。 

 ここで、対象が子供から大人という中の子どもと言っても就学前の児童から高校生くらいまでをひとくくりに子供としてしまうのには無理がある。このような作品の場合、大抵は下はせいぜい小学校の高学年までだろう。小学校低学年以下の児童が理解するには難しすぎる作品が多い。つまりジブリ作品はこの典型で、ジブリ作品を映画作品としてまともに鑑賞できるのは一般的に中学生以上と言っていいいだろう。ジブリ作品は自らの作画に合わせたオリジナル脚本であり、全てが彼らの(宮﨑駿の)スタイルで統一できるから、対象年齢の幅を多少広くみせかけても、狙いは絞られているという芸当もできるのだろう。他の日本のアニメは漫画が原作というものが多い。漫画は対象の幅は年齢ばかりではなく、読者の好みによっても狙いが細分化されているから、その細かな対象に合わせた、より極端な創作が可能となり、アニメ化される際にもその本質をなるべく失わないよう作られている場合が多い。このように日本のアニメ作品は狙いを絞ることで作品の内容を狙いに合わせた質の高いものに出来ているといえる。ところが、今回鑑賞した2つの映画作品についてはそこが曖昧なのだ。 

 「Pan」と「リトルプリンス」はそもそも原作がクセモノだ。両方とも、物語の語り口自体が大人のためのデフォルメがなされている。 

 デフォルメとは本来変形という意味らしいが創作においては主に対象の特徴を強調したり誇張するために行う変形を指す言葉として使われているだろう。子供、特に児童に対する作品におけるデフォルメは、まだ複雑な具体を理解できない彼らのその理解を容易にするためのものだろう。これは昔話が良い例である。桃太郎が川を流れてきた桃から生まれてくるのは、その物語の発生を考えれば様々な解釈ができるだろうが、物語を聞かされる子供にとっては桃太郎がおじいさんとおばあさんの子供になったこと、桃から生まれたので桃太郎と名づけられたことがすんなりと理解できればよいのである。今は昔話を絵本で読むことがほとんどだが、本来は話し聞かせたものだ。聞かされる子供は挿絵の世界も文字による印象も無いところから聞かされたお話の世界を自分で想像しなければならない。その創像が容易になるような工夫がなされているのだ。これでわかるように創作におけるデフォルメとは変形の対象の特徴を強調するための誇張であったり、抽象化であるとも言える。それは視覚像ばかりではなく物語自体(ストーリー)にも適用される。犬、猿、キジが従者になるくだりが繰り返されるのは人のつながりの基本的なあり方を最も単純化し、それを繰り返すことで印象づけるものだろう。近年注目された、成敗された鬼の側にも言い分があるという発想の転換はもっともだが、それは桃太郎を聞いて育った子供が中学生くらいになってから自分で気づくのならそれは素晴らしいことだ。しかし、就学前なら悪いことは悪いとわかればよいのである。しかし、「Pan」と「リトルプリンス」の原作は児童向けの作品とは言いがたい。特に「星の王子様」については体裁は子供向けだが、内容は大人向けである。大人が子供に戻って考える話だ。 

 今回の映画作品に戻ろう。「Pan」はストーリー自体は全体として児童にもわかりやすいものだ。しかし、セリフ回しは難しい。特に、海賊黒ひげの主張は難解だ。しかし、この男の考え方の悪さが簡単明瞭に伝わらなければそれこそお話にならない。ここは映像でカバーしているのだろう。黒ひげは人相も行いもひと目で”悪者”だ。しかし、それを取り巻く世界の描き方が複雑すぎる。複雑すぎて解らないということもあるのだ。 

 私は小学生の頃(だったと思う)、まだ白黒放送のTVでジュディ・カーランド主演の「オズの魔法使い」を見たことがある。当時の小学生にとって、それがモノクロであったこともあって、夢の国の冒険と言うより、不気味な怪物の国に見え物語の筋より、怖かったという印象だけが記憶に残ったものだ。「Pan」も同様だ。というよりも、ほとんど児童の鑑賞には映像の体験性だけで対応していると言って良い。児童の鑑賞に対し最初から内容の詳しい理解を求めてはいないのだ。そして「リトルプリンス」だが、これは児童にも解りやすいデフォルメの効いた作画だ。けれど児童に理解を求めるという目的性は低い。大人子供が失いそうになる子供心に郷愁をはせるその手助けを主な目的としたものだろう。 

「大切なものは目に見えない」ということをすんなりとわかる児童はまれだろう。 

子供でも、この物語の中の登場人物たちの相手に対する共感が大切であることはなんとなく理解できるだろう。しかしそれを論理として現実の生活に適用することは困難なはずだ。 

 物質のように見たり触ったりは出来ないが、確かに存在するといえば、精神の世界に他ならない。物質世界が精神の世界を担い、精神の世界が物質世界を変化、進歩させる。その関係をしっかりと理解したうえで、先の言葉を真に理解できるのは子供ではなく大人であるはずだ。この2つの作品の原作は実は思春期あたりの子供を大人へと成長させるための作品なのではないだろうか。映画は原作とは違った狙いを持って制作されることを否定するものではないが、2つの映画作品はその原作の意味をあまり考慮することなく、単なるファンタジーに仕上げたために狙いの曖昧な作品となってしまったのではないのだろうか。