ザ・コンサルタント
新しいスタイル
ジェイソン・ボーンのファンなら絶対ハマる、本格サスペンス・アクションと言う触れ込みの作品。それに違わず結構良い出来。
本格的(に見える?)アクションと見事なサスペンスの融合。ラストに向かって張られた謎(伏線)が次々と見事に澱みなく回収されて行くさまは本当に職人技。
本作の肝は主人公のパーソナリティにあるが、その使い方が新しい。新しいスタイルのアンチ・ヒーローの登場だろう。
この主人公の特徴(一般的には障害、この物語の中では才能)がピンチを呼び、またそれを切り抜ける力ともなるので、本当にジェイソン・ボーンようなヒットシリーズとなるかもしれない。続編の展開が楽しみな、アメリカ映画ならではのオススメ本格アクション映画。 私もハマりそう。
君の名は
日本の映画界における今年一番の話題といえば、なんといっても新海誠監督の「君の名は」の大ヒットでしょう。あらゆるメディアで話題となっています。しかし、この作品の興行面でのヒットの要因という話題は多くても、表現、作品としてのまともな評価というものはあまり目にしないようです。では、この作品、単にヒットの様々な今日的要素をうまく組み合わせることが出来た、プロデュースが上手く行っただけの作品なのでしょうか?私は違うと思います。この映画をプロデュースした人は新海誠監督の他にはない得意技をしっかりと理解していて、それを上手く活かしてヒット作品としたのだと考えています。ではその新海誠監督の得意技とは一体何なのでしょうか?
「君の名は」における新海誠監督の得意技は新しい映画表現を拓くか?
結論からいうと、新海誠監督はアニメーション作品において、キャラクターの感情表現と鑑賞者の作品世界への二重化を背景の工夫で実写作品以上のレベルに仕上げることに成功したのだと思うのです。
少し詳しく説明します。作品の内容については数多く解説されているのでそれらを参照していただき、ここではなぜ背景の工夫が鑑賞者の認識の二重化を強化するのかを私なりの考えとして示していきたいと思います。
新海監督の作品は背景の書き込みが緻密なことで知られています。ここが強調されていて、なぜ監督がそこまで背景にこだわるのか、そのことを明確に解説した論にはお目にかかれません。単に彼の特徴なのではなく、少なくとも、本作「君の名は」では確実にある効果を狙って意図的にその手法が使われています。これは彼の過去の作品を見れば明確です。
最初期の「彼女と彼女の猫」はモノトーンの短編作品ですが、すでに背景の凄さは現れています。ただし、この頃は明らかに今のような意図があったとは思えません。ここから名作「秒速5センチメートル」まではキャラクターの想いを解説するようなナレーションの非常に多い作品が続きます。特に「秒速5センチメートル」ではキャラクターの心象をナレーションとともに背景で語るような監督のスタイルが完成しています。しかし、まだ、感覚的にその効果を捉えていただけで、それがキャラクターの心象を描くための自分の得意技であり、ハッキリと形として自覚してはいなかったのではないかと思われるのです。なぜなら、次の「星を追う子ども」ではストーリー性の高い作品を目指したのか、それまでの特徴であった、ナレーションを廃し、完成度の高い作品となりましたが、背景による心象表現の効果は非常に薄く、それはジブリの作品と瓜二つのものでした。
動的環境の表現=緻密な書き込み、動く背景、光と音の演出
なぜそうなってしまったかというと、「秒速5センチメートル」までの作品はSFチックなものが多いのですが、それはあくまでも現代社会を土台とした物語でした。しかし、「星を追う子供」は異世界を舞台としたファンタジーです。それまでの作品と比較すると物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離が大きすぎるのです。実はこれが監督の得意技の効果を薄めていたのですが、また、監督はこの作品では意図してその技を質的に半減させていたのかもしれません。そのせいで、監督は自らの得意技の明確な形とその効果を自覚したのではないかと思うのです。では、なぜ物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離がおおきくなりすぎると、監督の得意技の効果が薄まってしまうのか、それは監督の技が私達の日常に非常に近い反映の上に成り立っているために、異世界が舞台では効果が出にくいということと、そのためにこの「星を追う子ども」とその前までの作品では技の使い方が違うのです。それは背景の動きと光と音の使い方にあるのです。
ここまで、背景という言葉をキャラクターの住む物語世界の環境における静的視覚情報、つまり背景映像の一瞬を切り取ったそのあり方に限って使ってきました。しかし、映画の背景とは静的な映像に限りません。背景や光が動くということとそこに重ねられる環境音はその場の環境をより立体的、過程的に表現します。映画が動く写真として生まれた時、それを観た人々は映しだされた人物よりも背景の木々の枝が風に揺れ動くのを観て驚いたという話も残っています。実は監督の得意技は背景の描き込みの緻密さだけではなく、その背景が動くこと、そしてそこに重ねられる光と音による鑑賞者のより立体的、過程的な観念的世界の創像にあるのです。
ジブリ作品の特徴は背景が緻密でさらに動くことですがそれ以上に深海監督の作品は背景が緻密で動きが多いものです。特に深海監督は演出として動くものを背景に取り入れることがより多いように思います。たとえば木々の枝が動くことで風や空気感を表現することはもちろん、雨、雪、降り落ちる桜の花びら、流れる雲、そして走る電車。また、そこに重ねられる光と影、雨には雨滴の輝きや水たまりのさざめき、ゆっくりと落ちる雪にはグレーの空気感、桜の花びらには輝くような木漏れ日、朝や夕には窓から入り込む直線に縁取られた斜めの光が立体的な輝きを放ちます。そしてそこに適切な環境音が重ねられます。この事によって鑑賞者はより強く作品世界に二重化できるのです。まるで日常世界の延長のようにです。
私達の認識は五感覚から得た情報で立体的に構成された像です。この五感覚の情報には必ず感情が付随しています。このような認識(一般的にはいわゆる表象)と感情との関係を表現者(これも一般的にはいわゆるアーティスト)は感性的、経験的に体得しているものですが、新海誠監督は論理的に理解してはいなくとも具体的に自分の得意技として理解しているようなのです。光や背景が動き変化することで、アニメーションの世界がまるで現実世界のように空気感や感触や匂いの感覚と相まっていきいきと創像されるのです。
今、ヒット映画やTVドラマの舞台となった場所をめぐる、聖地巡礼ということが流行っています。「君の名は」でも実在の街が舞台となっていますから、映画の場面と実際の町並みの写真を比較されることも多いのですが、すると、必ず作品で描かれた背景は現実の町並みよりデフォルメされて、広く、明るく描かれています。まるで、私達の子供の頃の思い出の風景が実際よりも大きく輝いているのと同じようにです。以前、監督がTV番組で話していましたが、彼の描く背景は実際の町並みを写実するのではなく、思い出の中の風景を描いているのだと言っていました。これが新海監督の得意技の正体です。別の言い方をすれば、彼の得意技は鑑賞者の日常が舞台であることによってより効果を発揮できるものなのです。
今回の作品はこのような条件が全てバランスよく揃った作品であったと言えますし、もちろん物語自体も面白かったのですがこの設定を創れたというのも監督自身が自分の得意技をしっかりと自覚したからではないかと思うのです。今回の物語の下地は自身の過去の作品「雲の向こう、約束の場所」にすでに見られます。この作品のキャラクターの関係性をより現実的な設定の上に作りなおしたのが今回の作品でしょう。この辺でも、監督が自分の得意技をしっかりと自覚したことが見て取れるものです。
これまで、新海監督は背景(物語世界の環境)を緻密に描くことに腐心して来ましたが、キャラクターの顔とその表情にはあなた任せのところがありました。キャラクター設定を他の人に頼むことが多かったはずです。監督自身はキャクターの表情を描くことが得意ではなかったのかもしれません。今回の「君の名は」でも作画監督とキャラクターデザインは安藤雅司という人が担当しています。この人はスタジオジブリで「もののけ姫」の作画監督をした人です。しかし、安藤監督の手を借りて、新海監督のこれまでの作品では観られなかったほどにキャラクターは表情豊かに動き回ります。ここも今回の成功の大きな要因でしょう。 この辺のバランスを上手くとったのは、川村元気というプロデューサーの力が大きいのかもしれません。しかし、このプロデュースの力で、非常にバランスの取れたヒット作が生まれたことは確かですが、新海誠監督の得意技を「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」と本作とで比べてみた時、そのこだわりが相当に薄まってしまっているということも確かに言えるでしょう。
この「君の名は」は特別新しい手法を開発したというわけではありません。しかし、上記のような効果を意図して作品の主な手法として使った監督はこれまでいないでしょう。もっと言えば新海監督のこの得意技はこの作品において影の主役と言っても良いものです。黒澤明監督の雪待ちのエピソードは伝説ですが、実写では伝説になるほどに難しい手法がアニメーションでは見事に統一された世界観として提示できることが可能であると証明できたことでも画期的なことであると言えるでしょう。このことについて、プロの世界でも誰も評価していないのは残念なことです。この点が実践者にもこのように具体的に理解できれば、実写映画においても何らかの形でフィードバックされるかもしれないからです。CGがようやく奇をてらった効果ばかりではなく、現実と想像との垣根を取り払う世界観の統一のために使われ洗練され始めてきたのは明らかですから、その可能性は大きいのです。アニメーション映画の世界と実写映画は正反対の方向からお互いに近づいています。新海誠監督はそれをディズニーやジブリとは違った切り口でまた一歩、近づけたと言っていいでしょう。
できれば、また得意技にこだわりまくった新海ワールド全開のまるで美術館か思い出の世界で映画を見ているようなそんな作品をまた、期待しています。
近況 「来年はやったるぞー!」
ゴジラ以降、ずっと休止状態。
現実の生活でもまるで冬ごもり。
しかし、こもってただ寝ていたのではなく、非常に充実しています。
理由があります。
実は面白い本に出会ったのですね。
「出会った」と言うのは正確ではありせん。
この本、2004年ころ、すでに手に入れていました。
しかし、一読して
「何言ってるのか、サッパリ解からん!」
というわけで、放ったらかしになっていました。
だから、個人的な再発見という方が正しい。
常々、映画についての体系的な理論書を探していました。
映画製作や撮影の技術解説書ではなく、作品論や作家論でもない、映画の本質についてのものです。
しかし、これが無いのです。
ある日、それこそ今年の夏あたり、またもやアマゾンの書籍リストをながめていて、
何気なく、カスタマーレビューを開いたんですね。
一度、買ってしまった本のレビューなど普通は見返さないんですが、
それも、2件しか無いものなんて。
でも、その2件が両方共、☆5つなんですね。
「ほ〜? そうだったっけ? 何で?」
曰く、
「キングオブ入門書」
「本格的映画理論の入門書」
しかし、自分の印象では入門書と言うには程遠い、訳の分からない本という印象。
で、本棚でホコリをかぶっていいたやつを引っ張りだして読み返し始めたのですね。
その本とは
J・オーモン,A・ベルガラ,M・マリー,M・ヴェルネ 著
武田潔 訳
「映画理論講義」(勁草書房)
さて、結論から言えば、映画草創期からの映画理論を網羅的に捉え、著者の観点からの分野分類による体系化を通して提示された、非常に価値の高い労作と言えるでしょう。
けれど、もし、まともな映画の理論書、入門書がこの本しか無いのだとしたら。
まず、映画とは何かという本質論がない。
ここは、この本の序論にその理由が書いてあって、映画という概念が覆う分野は一つの分野、側面からだけ捉えて、その本質とする事はできないほど、幅広いというのです。
が、そこをしっかりと解いてこそ、本質論といえるのであって、その本質論が無いがために、この本は用語の概念規定も曖昧で、人間の認識(観念)とそれを元にして創造された作品(実体)との区別までもが曖昧な、混沌とした内容となっているのです。
これでは、入門書と言うには程遠いものです。
そして、この本の混沌こそ、映画理論の歴史的迷走を端的に表したものでしょう。
もしかしたら、この迷走は映画論に限らず、芸術一般論、または更に大きく表現論にまで及ぶ現状を表しているのかもしれません。
と、カッコイイことを並べ立てるのは正直、後付の話で、最初は
「こりゃ~、ツッコミどころ満載じゃねーの?」
と、思ったわけです。
「映画のそもそもを考える」と言ったからには看過できませんよね。
で、このブログもホッタラカシの研究生活。
今はまだ、本の内容の論理的検証の段階ですが、来年夏までにはそれを終わらせ、
できれば、それを元に私なりの理論展開を始めたいと思っています。
つまり、本書に敬意を込めての
「映画理論講義批判 映画とは何か」(仮)
ということになります。
ま、来年の目標ですね。
そればっかりではこのブログの存在価値がなくなります。
たまには何か書いとかなくてはということで、
次の記事では今年の締めくくりをしたいと思います。
シン・ゴジラ
シンジへの解答
ゴジラシリーズでは第一作に継いでの傑作となった本作は監督のゴジラへのこだわりが強く感じられる作品だ。ゴジラの姿といい、圧倒的な恐怖といい、その物語のモチーフまで第一作を基本にして現代的にアレンジしたものだ。だが単なるアレンジではなく、今の時代を象徴する問題をしっかりと盛り込んでもいる。第一作ゴジラはその誕生した時代の日本人の思いを具現化することが一番の目的だったであろうから、本作は正統なリメイクとも呼べるものでもあるだろう。
その意味からいえばゴジラとは作品の主張を浮き立たせる媒介物であるともいえる。それは圧倒的な破壊と恐怖の象徴だ。第一作が生まれた当時の日本人にとって、その象徴の先にあるものは明確であったが、現代の殆どの日本人も同様の恐れがまた身近に迫っている予感を多かれ少なかれ持っているののではないかと思う。まさしく、ゴジラのように。
その時、日本人はどのように対応するのだろうか?その問いかけこそがこの作品のテーマだ。世界は日本の戦後の奇跡的な復興や多くの大地震のあとの被災者の落ち着いた強さに驚くが、その国民性は一体どこから来るのだろうか。ハリウッド映画に見られるヒーローという個人の活躍ではなく、宗教に根ざした自己犠牲と言うのとは少し違う感覚が日本人にはある。それは多分、圧倒的な苦境にあって自身をも客観視できる能力ではないかと思う。別な言い方をすれば、日本人は人間が個人としてしか生きられないのに、社会関係がなければ生きていくことが出来ないという矛盾した存在であることを経験的によくわかっているということだ。だから、どんなときも、自らが属する社会に最良の結果を得るために、各々が今、出来ることに最善を尽くす。それで自身がどうなるかということは二の次なのだ。そういう考え方が染み付いているということではないだろうか。この作品はそんな日本人のあり方をよく表している。
この矛盾は本能の海と森から認識の世界に歩み出た人類の宿命だ。そしてこれはあのTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が図らずも問いかけた矛盾でもある。
「シン・ゴジラ」はあのとき自己の存在理由に悩む中学2年生の個人的内省だけでは答えきれなかった問への庵野秀明監督の解答の一つでもあると思うのだ。
ズートピア
意外と”深い”のには理由がある
今回は映画「ズートピア」とともに書籍、三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」の紹介。
「ズートピア」の評判は総じて好意的です。抜群ではないものの、内容が意外と大人も楽しめるものだというのです。TVでのCMも「意外と深い」と締めくくっています。評論家の先生方さえ同様の意見ですね。
しかし、これは意外でもなんでもないんですね。1928年の「蒸気船ウィリー」の時代からのディズニーのお家芸と言っても良いものなのです。かえって、「ファインディング・ニモ」のほうがディズニーの動物キャラクターを使ったアニメーションとしては傍流と言っていいくらいです。さらに言えば、キャラクターが動物ではなく自動車であり、制作はピクサーで、配給だけがディズニーの「カーズ」はそれでも本流にちかいのです。何故でしょう?その秘密はすでに1965年に出版の三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」にしっかりと解き明かされています。
三浦さんは独学で弁証法をもとに芸術論・言語論・組織論などの未確立の分野の研究を進めたかたで、この「芸術とはどういうものか」も平易な文章ながら、他の追随を許さない論理性の高さで表現について学ぶ際には絶対に避けては通れない参考書の一冊となっているのは常識のはずなのです。ところが、そこについて言及されることがないのは専門家として恥ずべきことでしょう。そこで今回は私が代表して三浦さんの謎解きをご紹介しておきます。
まずは本書の引用から
芸術とはどういうものか(至誠堂選書13)
Ⅲ 新大陸の新しい芸術
ディズニー映画とその主人公
P.180から
童話では、動物たちが人間のことばを話している。そのさし絵では、動物たちが人間の服装で人間的な生活をいとなんでいる。これは童話を映画化したアニメーション映画の登場者たちにも見られることで、たとえば「狼なんぞこわくない」の主題歌がヒットした『子豚物語』での狼や三匹の子豚にしても、『兎と亀』での兎のマックや亀のトビイにしても、みな同じである。これらは動物の擬人化である。ところが、ミッキィやドナルドやグーフィやホレスやクラベルなどは、見たところ童話の世界の動物たちと同じでも、そこには鼠と家鴨と犬と馬と牛という動物関係が存在しない。狼が三匹の子豚をつかまえて食べようとつねにねらっているのとは、まったく異なった関係である。ミッキィ一族は動物に見えても実は動物ではなく、人間に動物的な外貌を与えたもの、人間の擬動物化である。ミッキィのつれているプルートが従者ではなく愛犬であるのに対して、グーフィはミッキィの仲間であり犬の外貌を持った人間である。
目からウロコと言うのはこのことです。私も始めてこの文に出会った時には開いた口が本当にしばらくふさがりませんでした。ディズニーの動物アニメーションが他と違い、深い機微に富んでいるのはアタリマエのことだったのです。なぜなら動物の姿を借りて解りやすく抽象化しているだけで描いているのは人間の社会そのものだったのですから。
本書は構成も絶妙で上記の項はアメリカにおける行動喜劇(スラップスティック・コメディ)の成立についての考察の次に来ています。実に解りやすい。映画ばかりではなく、表現一般について知りたいと思う方にはぜひとも一読をお勧めします。
で、映画「ズートピア」ですが、このディズニーアニメーションの伝統をしっかりと受け継いでいるばかりでなく、さらに発展もしています。上記の引用の中で他のアニメーションとの比較ではミッキィとその仲間たちには動物関係がないと書いてあります。ところが、「ズートピア」では動物関係が物語の中に取り込まれています。登場人物たちがまとった動物のキャラクターの種や系統の関係性を人間社会の人種や格差の関係の抽象化として取り込んでしまっているのです。見事と言っていいでしょう。だから、観ごたえがありのです。これらのことを踏まえたうえでディズニーアニメを見てみると、また違った世界が見えてくるでしょう。
殿、利息でござる!
意義ある再現ドラマ
ぜひ、多くの人に観て欲しい。このようなことが実際にあったということは驚きであるし、これを涙と笑いで再現してくれる監督の腕前には感謝しよう。原作「無私の日本人」は未読であったから、早速注文したほどだ。
日本人は明治維新を見ても、本当に頭が良い人が多いと思う。他の国であればほとんどが反乱とか革命という流れになるのだろう。もちろん、明治維新においてもそれが主流の考え方であるし、だからこそ坂本龍馬の姿が鮮明に浮かび上がるのだが、市井の人々の中にもこのような視点を持った者がいたということ、それが宗教観の薄いものであることも世界的に見て特異な事ではないだろうか。あらためて日本人や無私ということを考える上で、非常に興味深い話であるし、書物ばかりではなく、これを映画化するということも今の日本人にとって意味の大きいことであると思う。
キャスティングを見ればこの作品の意図がよく分かる。それぞれの役者の既存イメージそのままの配役であり、映画的な挑戦や驚きはない。だが、この手堅さこそが狙いであり、定番のお涙頂戴も行き過ぎなければ許されるだろう。つまりこの作品は監督や役者たちの表現というよりも史実を解りやすく見せるための再現ドラマなのだ。この作品では誰も突出していない。原作「無私の日本人」にふさわしいものとなっている。