映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話

明るく素直に面白い 

 これはもう、本当にエンターテイメントとしてのレベルが高い。スポ根と漫画的ギャグをバランス良く組み合わせた脚本が素晴らしく、演出のテンポも良く、ベタベタしすぎず、軽くなりすぎず、出演者も泣いて笑って踊ってに若さをぶつけているから、観ていて気持ちがいい。なにせ元がホントの話だから、説得力があって疑いの目では見られない。つい、引き込まれてしまう。こんな私のように単純なら、絶対に楽しめます。

オススメ。 

クリミナル 2人の記憶を持つ男

力作だが空回り 

 ケビン・コスナーが一皮むけて、”異常”をマトモに演じている。二枚目が抜けきらなかったり、どこかひ弱な感じがない。ゲイリー・オールドマントミー・リー・ジョーンズも濃すぎず、バランスが取れている。ということでいい作品になりそうなのだが、いかんせん脚本が弱い。ラストシーンから、製作側にシリーズ化の意図も見えるのだが、ジェイソン・ボーンシリーズのようなヒットは見込めないだろう。同様の意図が見えた「ザ・コンサルタント」と比べると主人公に圧倒的な魅力というものが欠ける。役者はいい味出しているのに、残念だ。

素晴らしきかな、人生

確かな登場人物の心象設定 

 ニューヨークの広告代理店を率いて成功したハワードは娘を亡くし、人生を投げ出しているように見える。共同経営者の大親友や苦楽をともにしてきた仲間2人とも口すらきかない。ついに会社は業績を落とし、買収されるしか生き延びるすべはないのだが、ハワードは話を聞こうともしない。そこで3人は一計を案じるのだが・・・。 

 という話の流れだが、彼らの計画に加担する3人の俳優にはハワードを現実世界に引き戻すため、それぞれの役割が課せられる。この俳優たちの役割がハワードだけでなく、彼の3人の仲間たちの人生にもおおきく関わってくるという、非常によく考えられた脚本だ。 

 泣かせることが目的の映画なのだが、核となる4人の登場人物の心象設定が適切で、こういうドラマにありがちな無理がない。中心となるウィル・スミスの役柄、ハワードだけが、ドラマ的にとても深く葛藤を持っているのだけれど、他の3人にもそれぞれの事情と悲しみがある。それらは身近によくありそうな問題だが、それが冗長にならず、しかもしっかりと描かれているのには感心した。 

 ハワードにしても無理がありすぎるわけではない。私個人としてはアメリカ映画によく出てくるグループ・カウンセリングがあまり理解できなかった。よく、同じような悩みを持つ者同士が語り合うことで、思いを共有することができるという説明があるが、それだけでは現実の問題解決にはならない、気休めにしかならないのではないかと思っていた。しかし、本当に辛い現実を受け入れられずに心がそこに立ち止まっている人にとっては、その現実を他人に話すということが、現実を受け入れることと同時に自らをそこから開放することなのだと言うことをこの作品を通して感覚的に理解することが出来た。 

 人の生と死に無意味とか台無しなどということはない。あなたも私も、世界の全ては美しくつながっているという話だと、勝手に解釈したのだけれど。 

 もう一つ、「時間は幻想だ」というのは事実だと思う。 

「え?突然、何を言い出すんだ?」 

と、言う方もいるかもしれないが、それは観てのお楽しみ。 

 世界のあり方は物質が”今”存在しているという瞬間が過程として連続しているという矛盾の統一にある。時間という現象は物が存在するということに付随する性質でしかない。過去と未来は現実には存在せず、それは人間の認識の中だけにある。時間は記憶の中の過去と私達が生きる現在と想像の中の未来とを結び、その距離を計るために人間が編み出した尺度でしかない。その尺度で仮定として時間を計ることがあまりにも当たり前になって、人間は仮定のはずの時間がまるで本当に存在するかのように考えるようになってしまったのである。 

 だから、この作品では、過去に囚われることなく、今を愛して生きることが美しい未来を迎えることにつながるのだと言いたいのだろう。 

オマケ 

 フランク・キャプラの名作を思い起こさせる邦題はいかがなものだろう。こんな、まがい物にするくらいなら、素直に「幸せのオマケ」のほうがよほどマシだったのではないだろうか。何故か?はこれも観てのお楽しみ。 

 

La La Land

素晴らしい! 

 ほんとに素晴らしい作品だなと思う。この監督、前作の「セッション」も素晴らしかったけど、ミュージカルがここまでできるとは驚きで、私のような古い映画ファンには涙モノ。何しろ、物語の前におもむろにスクリーンを区切るカーテンが開いて「シネマスコープ!」だから。この辺のことや内容の素晴らしさについては多くの人がコメントするだろうし、ぜひ本物を劇場で見て堪能してほしい。だから私は少し違う観点からの素晴らしさを考えてみたいと思う。 

 

「映画とは何か」を良く解っている 

 映画とは所詮、夢物語だ。この”所詮”というのは決して映画を馬鹿にして「どうせ・・・」という意味で使っているわけではない。「結局のところ」とか「本質的に」という意味だ。 

 映画の草創期、映画は芸術か単なる見世物かで大きな論争となったことがあった。これは映画が見世物として生まれたことと、その発達が映画作りの職人によってなされたこと、そして映画作りには監督という統括者はいても理論的に作者を一人に限定しづらいことなどが大きな原因となった。このブログで昨年の総括と今年の抱負として挙げた映画理論講義(J・オーモン,A・ベルガラ,M・マリー,M・ヴェルネ 著)という著作がある。一応この本が映画理論の教科書的存在となっているらしいのだが、上記の論争から生まれた迷走がこの本に如実に表れている。興味のある方は読んでみるのも良いけれど、きっと何を言っているのわからないと思う。この本を解るという人は事実をしっかりと捉えることのできない人だ。その辺のことはいずれお約束通り私が解説しようと思うのだけれど、何しろ本の内容が多岐にわたり迷走も幅が大きく、いちいち付き合っていられないくらいなものだから、どう整理してやろうかと今、準備中なのだが、結論を言えば、 

「La La Land を観ろ!」 

ということなのである。 

 芸術は芸術だと言ってしまえば芸術であるし、その価値は作り手と鑑賞者の相対的な関係の上で成り立つこと。映画は表現の形式であり、芸術は常に表現と興行の両側面を持っていて映画は興行面が強いだけであること、作り手と語り手がどうこう言うより、役者も撮影も美術も関わる全ての人々の表現を集めてそれらを媒介として一つの作品にまとめあげる、それが監督の役目で、それは監督の心の世界の写し鏡であること。だから、ドラマではなくても、ドキュメンタリーやルポルタージュであってもアニメであっても、それは出演者と演出者の表現を集めて監督の精神を通して表現されたという意味では、心の在り方を集めて作られた「夢」であると言っても良いということ。そのことがこの作品を観れば一発で感覚として理解できる。 

 この監督は映画とはどのようなものかということが良く解っている。それは彼がジャズプレイヤーを目指していたことと大きくかかわっているだろう。理屈をこねくり回す学者より、表現するということを体で解っているのだろう。 

 La La Land というタイトルも粋だ。映画が夢であるだけでなく、ミュージカルは歌とダンスでその場面での登場人物の心の有様を表現するものだということが解っていれば、セバスチャンとミアがわざわざタップシューズに履き替えて踊りだしても、プラネタリウムで中を飛んでも、躊躇もてらいもないのだ。物語世界の現実と登場人物の心の世界との垣根がなく表現される作者の夢の世界なのだ。私たちはその作者達の夢の世界の集合体を監督に導かれながら追体験をする。 

 エンドクレジットに流れる曲の並べ方なんて絶妙だ。使った曲をただ並べるだけでなく、観客が作品の余韻に浸れるように考えて並べてある。彼にとっては3作目は難しいだろうけど、期待せずにはいられない。 

 

追記 2017年03月13日

 さて、前回は「理屈じゃない!」みたいなことを言っていながら、理屈をこねてしまったのだが、二度目の鑑賞での内容についての感想を。一言で言って、 

「なんだか、切ないねェ・・・」 

 シネマスコープとテクニカラーとスタジオセットのような撮影で、明るく、楽しく、ハッピーエンドの'50風ミュージカルかと思いきや、現実はキビシーというお話。なるほど、二度目を観ると、セバスチャンの車がなんだかわからない古いフルサイズのオープンのアメ車で今時カセットテープで音楽を聞いているのに、ミアの車はハリウッドセレブ御用達のプリウスだというのが、単にキャラクターの性格付けのためだけでなく、その性格と将来の姿を象徴していたんだなと、思ったりもする。ストーリー自体はごく単純なものだけれど、作りはやっぱり凝っている。だから、最初のシーンですでに夢をつかむ彼女と過去を引きずってしまう彼の姿が暗示されていたんだなあと思ってしまう。ラストシーンの二人の微笑みの意味を観る者のそれぞれの思いに委ねてあるのは監督の優しさなのかもしれない。 

 好き嫌いが別れる作品なんだなと思うけれど、アカデミー賞が作品賞ではなくて、監督賞というのはアカデミー賞も「まだまだ、捨てたもんじゃない、解ってるねぇ〜!」というところで、こんな風に楽しませてくれる作品、やっぱり、好きだなぁと思う。 

虐殺器官

設定に疑問 

 私は伊藤計劃という名前を知らなかった。某映画評論サイトでの紹介文で初めて知った。時代を画するような才能を認められた作家が若くしてこの世を去っていたということ、そして彼の作品を原作とした映画作品が公開されるということに興味を持った。だが、それはハード系のSF設定のアニメではありがちの饒舌に過ぎてキャラクターの甘い作品だった。 

 結論から言えば、設定が甘く、人物描写がご都合主義的であるということになる。原作の評価がすこぶる高いようだが、私は未読だからそこについては評価は出来ない。この作品が原作に忠実なものなのか、原作を元に創意工夫を加えたものなのかも解らない。だが、本作が原作に忠実なものであれば、原作者が夭折したこと、原作を10日で書き上げた、病床の約3日で書き上げたというような言説に評価が引きづられているのではないだろうかと思ってしまう。近々原作を確かめるつもりだ。 

 SFの主要な魅力一つに、空想ではあっても統一された世界観というのがある。その中でも技術や世界についての科学的知見の統一感はその作品の肝となるものだ。SFはどんなに荒唐無稽な理屈でもシンプルで強固な筋が一本キチンと通っていれば、後は物語の面白さなのだ。枝葉末節の矛盾に対する揚げ足取りに対しても、物語本来の面白さの前にはどうということもないように思えてしまう。だが、本格の装いの強い作品ほど根本に筋が通っていない部分があると興ざめするものである。私自身はお世辞にも科学に強いというわけではない。その私が科学云々以前の論理の破綻に気づいてしまうのだから、ちょっと首をかしげてしまう。ネタバレになってしまうが具体的に挙げてみよう。 

 この物語の伏線の重要な解答の一つに「虐殺の文法」というのがある。虐殺が行われている地域の会話にはあるパターンが存在するというのだ。それは太古から人類が生存のために育んだ器官が脳に存在し、その発動が会話にパターンとして現れる。ある言語学者がそれに気づき、そのパターン、つまり虐殺の文法を為政者との会話に忍ばせてその行動を方向づけ、その国に虐殺を蔓延させるというのだ。さて、ここに私は疑問を感じてしまうのだ。 

 それは言葉の概念規定への疑問である。”虐殺器官”というが、器官と言うのは実体である。そして脳は実体として存在し、だからこそ一つの器官だ。右脳と左脳の役割が違うということはよく言われることだが、また、右脳だけ左脳だけで役割を果たすことは出来ず、脳幹を含めた全体で体と心を統括するという役割を果たす。となれば、人間の脳にこの物語で言う虐殺の文法に反応する部分が存在するとしてもそれは”器官”ではなく、あくまで脳という器官の部分が反応したり働いたりするのであり、それはあくまで脳という器官の働きであり”機能”と呼ぶべきではないだろうか。 

 人間と他の動物との分水嶺はその行動規範が本能であるか、認識によるものであるかの違いにある。ところが物語上の説明では虐殺の文法の原基形態は人類がまだ、猿からしっかりとは別れていなかった頃に本能に刻まれてきたもののように解釈できる。その頃の、後に人類となるサルたちに言語というもがあったのだろうか。個体の発声による群れの行動が存在したにせよ、それは本能レベルの、外界の変化に群れがパターン的に反応するための信号のようなものでしかなかったのではないだろうか?これと人間の外界を選択的に捉える、問いかけ的認識とは似て非なるものだ。人間は生理的な肉体の統括以外の本能を失うことによって、認識を発生させた。このことで人間は教育され学ぶことによってしか人間にはなれなくなった。しかしだからこそ、自らを犠牲にすることも自殺することも可能になったのである。本能から認識への発展過程において本能的な発声による信号が認識の交換という言語活動に受け継がれた部分があるにしても、自殺や虐殺は本能的なスケープ・ゴートとは論理がまったく違うはずである。この物語はその違いを一緒くたにしてしまっているよう思えるのだ。 

 生まれて間もない赤ん坊は、教えなくても本能的に泳ぐことができるという。しかし、認識の成長とともにその本能も消えてしまい、あらためて教育されなければ泳げなくなってしまう。しかし、そこで学ぶ泳ぎ方は人類の歴史的試行錯誤の結果生み出された技なのである。人間は環境(自然)の一部であるための本能による動きや行動規範の発達の限界に達し、自ら環境を作り出し、その新しい環境に適した体の動きを統括するために限界に達した本能を捨てざるを得なかったのだ。つまり、私にはどうしてもある言語パターンが人間の脳に未だに潜む本能を呼び覚ます、というアイディアに納得出来ないのである。それでは虐殺器官の発生と言語との関係に敵対的な矛盾が生じてしまう。 

 だから、私は今一つこの物語に没入できなかった。専門家ではないから疑問でしかないのだが、私にすら疑問を抱かせてしまう、本格を装ったSFと言うのはどうなのだろう。 

ナイスガイズ!

ラストの皮肉に思わずニヤリ 

 息苦しく、不安な今に'70の懐かしい雰囲気、痛快なバディ・ムービーを楽しみたければオススメ。だけど、それだけじゃない。

この作品、いつ企画されたのだろうか?まさか、2016年中に企画の立ち上げから公開まで進めたのか?そんなことはないだろうけれど、どうしても今、「言ってやりたい!」事があって、そいつにピッタリの企画があったから、その中に「言ってやりたい!」ことを仕込んでしまったというところなのだろうか。とにかく、このご時世にピッタリの作品なのだ。そして、それを聞いた観客は、特にアメリカの観客は賛否に分かれて立ち上がり、日本の観客は思わずニヤリとせずにはいられないだろう。 

 舞台は1977年のロサンゼルスらしい。当時は日米貿易摩擦が大問題となっていた頃。この物語の背景もアメリカ製造業界の屋台骨を支える自動車産業、いわゆるビッグスリーGM・フォード・クライスラー)の苦境が下敷きとなっている。このあと日米貿易摩擦は自動車紛争へと発展していく。 

参考:https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_040.aspx 

ここを押さえておかないと、単なる面白おかしいバディ・ムービーと見間違えてしまう。いや、もともとはそういう企画だったのかもしれないし、そういう作品としても十二分に楽しいのだが、それだけではない。物語は自動車産業界の政府との癒着を告発するために創られた一本のポルノ映画にまつわる連続殺人事件へと発展していくのだが、そこに彼らは「今、どうしても言ってやりたい!」ことをたった一言だけ、けれど全編を巧妙に下敷きとした強烈な皮肉として仕込んだのだ。実はこの作品自体が物語に出て来るポルノ映画と同様の役割を果たしているのだ。 

 さて、その一言の皮肉とは、これが面白い。それはラストシーンのライアン・ゴズリング演じるホランド・マーチがラッセル・クロウ演じるジャクソン・ヒーリーに対してのセリフなのだが。 

 「どうせ、5年も経てば・・・・・」 

 「・・・・・」の部分は観てのお楽しみなのだが、そこがわかればそのセリフは決してヒーリーに対してのセリフではなく、今見ている観客に対してのセリフであり、あの有名な金色とさかの人物へのメッセージだということがはっきりする。当時の自動車技術を考えても、自分の車の標準装備についても知らないようなマーチのキャラクターを考えても物語世界では到底出てこないセリフのはずだ。普通このような演出は観客を物語世界から現実世界へと引き戻してしまい、興ざめさせてしまうのだが、このセリフをラストの絶好のタイミングに持ってくる上手さに脱帽なのだ。 

 私はこのシーンを何にも増して痛快に思った。これをやってしまうアメリカの映画人のパワフルさと勇気に拍手なのである。背景にはもしかしたら映画界の既得権益者とのつながりがあるとしてもである。 一見の価値あり。

キセキ あの日のソビト

アイドル映画じゃない 

 松坂桃李菅田将暉のダブル主演だから、若い女の子のファンが目当ての作品だと思ってしまう。実在する、異色の人気ボーカルグループの実話がベースの話だから、音楽満載の派手な作りと想像してしまう。

 確かに冒頭のライブのシーンは派手なツカミなのだけれど、唐突に転換する次のシーンでは全く違う雰囲気に観客は心を掴まれてしまうのだ。そしてクレジットが流れ始めると、なんとも懐かしい日本映画の味わいだ。驚きとともにますます引きこまれてしまう。 

 

素晴らしい環境音 

 ここから、作品は一見、淡々と進む。普段テレビドラマしか観ない人たちにとってはテンポが遅く、歯がゆく感じるかもしれない。しかし、映画ファンにとっては結構シビレル演出だ。カメラの移動と転換を削いで、役者の演技をしっかりと捉えるやり方は日常と裏番組とCMの狭間から抜け出せないテレビドラマでは出来ない作りだ。お金を払い、劇場の椅子にしっかりと腰を据えた観客の目を裏切らない。目だけではない。耳をすませてほしい。音楽がテーマの一つである作品なのにBGMが極端に少ない。しかし、無音ではない。登場人物が演じる葛藤の裏に微かに聞こえる環境音。夕方を知らせる有線放送、街のざわめき、風が揺らす窓のがたつき。これらが画面に奥行きと流れを与え、リアルさを増し、役者の演技を際立たせる。映画ならではの美しい作りだ。 

 

主役は松坂桃李 

 人にはそれぞれ役割がある。夢とかの次元をこえて。そんなセリフが出てくるが、それもこの作品の大きなテーマの一つだろう。松坂桃李演じるJINは確かに挫折したのだろう。しかし、また違う形で夢を叶える道を見つけたのだ。努力は嘘をつかないとか、信じればかならず叶うなどというのは嘘っぱちだ。方向の間違った身にならない努力もあるし、取り返しのつかない間違いということも往々にしてある。それでも自らを信じて進むしかないのが人生なのだ。確かなのは歩みを止めさえしなければ必ず変化はあるし、そこに新たな夢を見出すこともできる。自らの人生を注ぐ対象はなんでもいい。重要なのはその対象にいかに、そしてどれだけ取り組めたか、なのだ。だから、この作品はダブル主演というよりも、松坂桃李主演の青春映画だ。久しぶりに、現実をしっかりと見つめた気持ちのいい青春映画だ。