映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

ローガン・ラッキー

ラストベルトの人々で描く、痛快アメリカン 

 こういうの久しぶりです。徹底的に娯楽です。でも、アメリカンコミックスやファンタジーではなく、しっかりと現実感との調和が取れた作品。待ってました!と声が掛かりそうです。「映画はこれでいいんだな・・・」という感慨さえ湧いてくる作品です。 

 監督は「オーシャンズ11」シリーズが有名なスティーブン・ソダーバーグで、内容は、大一級のプロの窃盗団を描いた「オーシャンズ11」のコソ泥版です。でも、こっちのほうがずっと面白い! 

 物語は昔、日本でも大ヒットしたジョン・デンバーが歌う「カントリー・ロード」(劇中でも何回も出てきて、地元の人の思いが伝わります)の舞台であるウェスト・バージニア州です。ここはトランプ支持者が多いと評判だった、通称ラスト・ベルトと言われる地域のすぐ近くなんですね。で、出てくる人々がバカばっかりなんです。(私も本気でバカにしているわけではありません。あしからず)ここは映画的な誇張なんですが、アメリカ社会のある部分をおもしろおかしく描くことで簡潔に表現しています。けれど、決して笑いのネタにするばかりではなく、その演出には現代アメリカ社会の歪の中で造られてしまった、そんな人々に対する愛情のようなものまで感じます。「カントリー・ロード」の使われ方、主人公の弟が片手をなくしている経緯やラスト近くの山分けのシークェンスはそんな監督の思いがよく出ています。

 脚本を書いたレベッカ・ブラントという人がウェスト・バージニア州ローガンで、代々地元の炭鉱で働いてきた家庭で育ったということなので当たり前といえば当たり前なんですけど、ここは拍手! 

 盗みの舞台がレース開催中のモーターウェイということもあって、’70代の作品の面影もあり、古い映画ファンには懐かしさもある作品となっています。最後は痛快、大ドンデン返しです。が、それと同時に、ラストシーンは意味深で、シリーズ化の意欲満々といったところでしょう。

 次回作に期待!気分転換には最高です! 

そもそもを辿っておりました。

久しぶりです。

 ほったらかしにしたのは5月ですから、もう7ヶ月になります。何をしていたかというと、映画のそもそもをもう一度辿っておりました。

 簡単に言うと、ある本に感心したのと、憤慨したのが同時だったので、少し自分なりに突っ込んでみようと思ったからなんです。その本は基本的に映画を見る人の立場から解き明かそうとしたものですが、過去の映画の研究は言うに及ばず、言語論や経済学など様々な分野の論説を引っ張り出してきて、その広い分野に対する考察は実に感心してしまいます。が、一方で「ほんとに全部理解して言ってるの?」と疑わざるをえない内容なのです。つまり、その本をいくら読んでも「結局、映画って何?」ということは一読しただけではさっぱりわからないのです。

 これは「自分がバカだから・・・」と認めるのも悔しいし、もともと、映画が好きだったのに加えて「映画は動く写真として生まれた」との三浦つとむさんの言葉に触発されて「映画の発生から発展の過程を踏まえてのその本質と独自の表現形式のあり方を解く」ことが個人的な目的で、その副産物がこのブログでしたから、その本に負けてはならじと、ツッコミ始めたのですが、これが、思った以上の難物でした。で、自分なりの答えが出るのはもう少し先になりそうですが、このブログもほったらかしもかわいそうなので、今年の締めにいくつか、最近観た作品の感想でも書いておこうと思います。

 そもそもからは一旦離れて、気楽にね!

3月のライオン 後編

後編のほうが解りやすい?

 相変わらず、門外漢に将棋そのものの魅力は伝わらないが、プロ棋士の世界の厳しさや対局の激しさは前編より伝わってくるし、人間関係の描き方もジメジメ感が少なくなったように思える。内容的には前作に劣らずドロドロのはずなのに。たぶんテンポと客観性だと思う。 

 もちろん物語映画だから、創作であるし客観性というのもおかしな話だが、創作された物語にも現実世界に準じた世界がある。現実に生きている人間が作者であり、その作者の認識は現実世界という環境によって作られているのだから当然である。まして、映画作品は一般性の高い言語による表現と違い個別性の表現である。客観性が高くなるのは当然なのだ。では、漫画と映画とではどうだろう。 

 本作の原作は漫画である。漫画も画を主として物語世界を表現していくから言語表現よりはずっと個別性が高い。しかし、だからといって物語世界における客観的視点でしか描けないかといえばそうではない。映画よりは比較的に概念性、一般性の高い表現が可能なのだと思う。少女漫画でよくある、突然お花に囲まれて陶酔する登場人物の姿は物語世界における客観視された登場人物ではなく、登場人物の心の目を通して描かれているのは少し考えると解るはずだ。少年の頃、少年漫画は大好きなのに、少女漫画にはどうしても馴染めなかったのはこのせいなのだ。少年漫画の物語世界は主人公の外へと大きく広がっていくのに対し、少女漫画の物語世界は登場人物の心の内側を見つめ、そのつながりに収斂していく。だから少年は少女漫画を理解できない。大人になっても少女漫画の読み方に慣れなければ、なかなか楽しむことは出来ないのだ。 

 本作の原作の手法は後者なのである。私も今ではその違いを理解し、楽しく読めるようになったが、馴染むのには時間がかかった。映画にもその影響が大きい。ここを理解しないと素直に楽しめない人も多いと思う。と言うか、映画では前、後編に分けても、内容に不足感が高い。より正しく楽しみたければ原作漫画を読むほうが良いだろう。 

追憶

昭和の美 

 この作品は鑑賞者を選ぶだろう。物語もそこに登場する人物の描き方もそれほど深いものではなく、今観るとお涙頂戴と映るものかもしれない。だが、この作品はそのように読むよりも心情や背景を観て感じるほうが良いだろう。しかし、そうして観ることで、この作品を「美しい」と思えるのは昭和という時代に青春を過ごした者たちだけかもしれないのだ。 

 私はこの条件に当てはまるけれども、若大将にも寅さんにもほとんど興味がない少年時代を過ごした。劇場映画は時々親が連れて行ってくれた東映まんがまつりや、ゴジラガメラの印象が強い。しかし、当時頻繁にテレビで放映されていたフランス映画やチャプリンヒッチコック作品などはよく観ていたし、私が映画に心を奪われたと思えるのは「2001年宇宙の旅」だった。そして青春時代はアメリカン・ニューシネマとともに過ごしたのだ。だがそんな私でも好みの裏に私を育ててくれた時代の雰囲気が染み付いているものだ。私が観たのは全て、昭和の日本に育った目を通したフランス映画であり、アメリカン・ニューシネマなのだ。だから、この作品を観て「クサイ」とか「情緒的にすぎる」と言いながら、密かに劇場の暗がりで目をうるませてしまう。本当にカットの一つ一つが絵になっている。写真的な美しさではなく、映画的な動的な美しさだ。特にタイトルバックの風景とラストシーンからエンドクレジットへの転換は映像だけで泣けてしまう。 

 この作品の売りはやはり監督、降旗康男と撮影、木村大作のコンビということなのだろう。だから、そこを楽しめる方は存分に昭和の美に泣いて欲しい。 

美女と野獣

エ!こんな感じ? 

全世界で大ヒット!アニメ版は不朽の名作、というフレコミで封切られたのだが、実際に観てみると、「エ!これがその大評判の作品なの?」と思うくらいにつまらない。

 キャラクターの描き方がまったく不充分であるのに、キャラクター各々に無条件で惹きつけられるような魅力があるわけでもない。正直に言うと、箸が転がっても可笑しい年頃の女の子でなければ、特に私のような高齢男性にとっては、観るべきところが無いどころか、何が面白いのかさえ解らないのではないだろうか。

 まぁ、初めから製作者達は私のような鑑賞者を相手にはしていないのだろうけれども、しかし、それにしても酷いのではないかと思えてしまうのだ。個人的には、なんだかおとぎ話を通り越して、胡散臭く感じてしまう。

 私は女子中学生から20代前半あたりの女性たちに聞いてみたいのだ。

「ねぇ、みんなが観てるからというのでなく、本当に面白いと思ってる?」 

ゴースト・イン・ザ・シェル

古い 

 映像としてはもう古いのではないだろうか。原作を大切にしていることは解るが、アジアと日本の描き方がステロタイプ的な古いもので、欧米のファンには安心感はあるものの新しさやインパクトに欠け、アジアのファンにとってはかえって腹立たしく思えるものではないだろうか。

 東アジアの文化は中国、台湾、朝鮮半島、日本、東南アジア、インド等、欧米人から観た見た目は似ていても、中味はそれぞれ大きく違う。そうであるからこそのカオスとしての魅力を放ったのは前世紀の話であり、これらの国々が経済的な発展により、それぞれの文化の主体性を自覚し始めている、そのようなときにこの作品のような映像はありえない。それに、この作品の主役がスカーレット・ヨハンソンに決まったときに、ハリウッドではアジア系の役に白人を使うことについての抗議の声が出たようだが、原作の生まれた当の日本ではそんなことにこだわりを持つものはいなかっただろう。それは日本人の人種や文化に対する考え方の未熟というより、本作の設定の肝と言える機械の体とゴーストの関係性を知っていれば見た目の人種がどう見えようがあまり関係はないからで、原作に対する理解の普遍性においても日本と海外ではそのレベルに大きく違いがあるのだろう。ゴーストをこのようにわざと解りやすくし、古くからのストーリーに落とし入れてしまったのも、西欧的な解釈だ。この映画は現在の日本のファンにとってはハッキリ言って駄作である。 

ハードコア

映像表現的完成度はA級だが、内容はC級 

 主人公の主観視点のみで物語をすすめる作品はこれまでも無かったわけではないらしいが、実験映画レベルではなく、娯楽作品として鑑賞に耐えるものを作り上げるのは相当に難しいだろう。この点に関して本作は非常にレベルが高い。しかし、その手法はシューティング系のビデオゲームそのものだろう。物語の基本的な設定も近頃流行りのありふれたもの。この手法はストーリーが単純な方がいい。なぜなら一人の主観映像だけだから、複数の観点から鑑賞者に状況を客観視させることが出来ない。鑑賞者は物語世界へ移入するのではなく、物語世界の中のただ一人の認識とシンクロする。宣伝用のコピーはここから来ているのだろう。そういう制限がありながら、十分な娯楽性を持っていて、映像表現的な完成度はすこぶる高い。しかし、この娯楽性の部分が人を選ぶ。グロなのだ。最初から最後までグロテスクな暴力と殺人の場面が延々と続く。これを楽しめる人は良いが、少なくとも私は楽しめなかったし、今後も理解したいとも楽しみたいとも思わない。好みはハッキリと別れるだろう。そこを納得の上、鑑賞を。