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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

バードマン

映画論

 この作品、主演のマイケル・キートンの人生と重ねあわせて彼のための作品という側面が強いとの評価が一般的で、アカデミー賞マイケル・キートンのためにこの作品が選ばれたのだという解釈が多い。確かに事情通にはそう見えるのだろうけれど、それだけのためにこれを作ったとは考えられません。それどころか私には作者の非常に強い主張が感じられます。しかし、この作品、宣伝文句が観る者を誤解に招くようなものだから、作品自体も少し間違った観られ方をしているのではないでしょうか?

 私が思うに宣伝文句の「現実と虚構」という件は明らかに作者の意図に反した解釈でしょう。なぜなら、主人公の超能力者まがいの描き方は虚構でも何でもなく彼にとっては紛れも無い現実だからです。「えっ!?あれが現実?」という方も多いでしょう。ここを理解するポイントは視点の位置なのです。

  全編を1カットように見せる演出は特別新しいものではありません。だから、ただ目新しさのための演出ではないと思うのです。ではあえてこのような手法を採用したのはなぜでしょう。それは主観的視点をつないでゆくということを試したかったためではないでしょうか?

  映画において視点とは具体的にはカメラの位置です。CGでの作画でも仮のカメラ位置を設定します。そのカメラの位置には次の3つの意味があります。

  1.作品世界における視点。これは登場人物の視点であったり、その作品世界を客観的に捉える視点と言えます。またその視点は様々に移動したり拡大したり縮小したりします。この視点のあり方によって表現されるものが変わってくるのです。

  2.作者の視点。上記のような様々な視点のあり方は作者の表現意図によって決められます。表現形式の一つである映画は作者の認識世界の再現であるとも言えます。そもそもだからこそ表現というのです。

  3.鑑賞者の視点。上記2つのように作られた視点は再構成され、作品となって鑑賞されます。鑑賞者は作者の表現意図によって構成された視点に自らの視点を重ねることで、作者の認識世界を追体験していきます。

  全編を1カットのように見せるためには場面のつなぎは切れ目のない視点(カメラ)の移動で行わなければなりませんが、この作品では殆どの場面の移動が人物の移動をカメラが追う形で行われます。このとき次の場面はカメラが追っていった人物の視点から始まることになります。ここでちょっと考えてください。人間が”見る”とはどういう構造を持っているのでしょうか?

  人間は対象をカメラのように光学的に捉えるわけではありません。眼球はカメラのレンズと同じ機能を持っていても、そこから得られた対象の光学的情報は脳の機能である認識において他の感覚情報や感情、記憶とともに像として再構成されます。対象は各人の認識の在り方にしたがって再構成されるのです。簡単にいえば人間はそれぞれ同じものを同様に見てはいません。さらに人間は見たいものしか見ない、世界は見たいようにしか見えないのです。つまり、個人の視点で表現するとは常にその者の主観的視点で表現することに他なりません。

  ここで作品に戻りましょう。主人公リーガンは過去の自分に囚われていますが過去の映画の中でのヒーローとしての自分から、現在を生きる自分自身として自己確立を果たしたいと願っています。しかし、過去の自分は現在の自分の世界を大きく侵食しています。そうです。彼の主観的視点からは世界があのように見えているのであり、それは彼にとっての紛れも無い現実なのです。

 そして、ラストシーンでの娘サムの視線の先にあるもの、それも彼女の主観的世界であると考えれば、表現として納得のいくものとなります。その解釈が鑑賞者に委ねられているとしてもです。

 監督は登場人物の見た目の世界をつなぎあわせて作品とすることを試みたのではないでしょうか。試みとしては新しく、面白いものですが、商品としてはどうでしょうか?残念ながら面白い作品とはいえません。多分、作者としては現実なのか、虚構なのかその謎が次第に解けてゆく、リーガンが空を飛んだ後、その謎の答えがが明確になるその過程の面白さを演出したかったでしょう。しかし、よほど映画を観慣れている鑑賞者でなければその答えがスッキリとは解りません。特に一般的な鑑賞者にとっては退屈な作品と思われても仕方がない出来です。

  残念ながら、作者の新しい試みは意欲的ではあっても自己満足で終わってしまったと言ってよいでしょう。