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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

イニシエーション・ラブ

作品評

皆さん、結末どう思う?

 結末、あのタネ明かし部分ではなく、原作にはない鉢合わせ部分、これだけ賛否両論あるということはそれだけで大成功な作品なんでしょうね。私も楽しませてもらいました。

 原作は映像があまり思い浮かばないし、主人公の男の容姿なども直接的な表現はしていない。それも重要なトリックの一つ。小説という表現形式の特徴を存分に活かしたトリックだから、これを映画化するのは根本を考えなければなりません。表現形式の違いというのをあらためて考えさせられた作品ですね。

 そもそも、小説は言語という概念での表現であり、一般性の表現形式で、映画は、映像という個別性の表現である(詳しくは、三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」参照)といえます。この作品を例に簡単にいえば、原作での繭子はショートカットで細身の少女のようで、後は服装などの表現から、読者がそれぞれの想像の中でその姿を創り上げていくものです。ところが、映画では見てズバリ、前田敦子さん個人そのものです。ここには異論もあるでしょう。役者はその肉体を借りて、あくまで物語の登場人物を演じているといえます。それでも、やはりあっちゃんの繭子であって、それ以外ではないのです。だから、原作既読者にとって映画の鈴木夕樹くんを見た時、「え!こいつ?」と驚いた人も「そうか、キャラをよく読めばこうだよね!」と納得した人もいたでしょう。私は森田甘路さんをキャスティングしたことを結構大きく評価しています。もしかして痩せると本当に松田翔太さんに似ているのではないかという疑問も含めて。ということで、原作のトリックを表現形式の違いを乗り越えてここまで忠実に再現してみせた監督の手腕に拍手を送りたいものです。ただ、一点、あの結末を除いて。

 この作品は広い意味でミステリーと呼ばれているのだと思います。なぜなら、最初は物語に不思議や謎が存在することすらわからないのですから。原作では最後の2行でなんて言ってますが、正しくは最後の2ページくらいでしょうね、アレ?と思うのは。それも読者の認識が一度に劇的に覆されるのではなく、

あれ?

で、名前を確認し、

あれ、あれ?

で放送年月やら水着のカタチを確認し、

あれ、あれ、あれ?

で、いろんな事柄の時系列を確認するために再読し始めると、そんな人が多いと思います。私と同じように映画を観るために初めて文庫本を読んだ人なら、巻末のカセットテープのA面とB面についての解説を読み「ナルホド、そういうことか!」と気がついた方も多いでしょう。それくらい手の込んだミステリー小説でした。このような謎が解き明かされるタイプのミステリー小説の読後感は謎が解き明かされたスッキリ感とともにその謎の真相に伴う恐ろしさであるとか愛しさであるとか喜びや悲しみのような感情が伴うものです。そのような感情が深いほどトリックに偏らない上質の物語であると言えるでしょう。原作では謎は読者にだけバレて登場人物たちは知らぬが仏状態です。物語全体がミステリーのままで、

「女性って、怖いなぁ〜」

というのが読後感。女性の中には現実にこんな人もいるのかもしれない?という一般的な広く深い不気味さを感じます。ところが映画の結末では登場人物たちにも全てネタバレで、最後のあっちゃんの表情は困ったようにもトボけたようにも見えます。これではミステリーはあっちゃん演じる繭子個人に矮小化され、鑑賞後は

「このあと、あの人達はどうなったのだろう?」

という興味のほうが強くなってしまったのではないでしょうか。

 手元にあって、何回も読み返すことのできる本と違い、映画は再度観るためには新たに劇場に足を運びお金を払わなくてはなりません。そこまでする人は少ないでしょうから、原作を未読の鑑賞者でも、できれば1度の鑑賞でなるべく多くを理解してもらいたいというのが製作者の思いであり、そのためのあの結末であり、ラストのタネ明かしだったのでしょう。しかし、先程も言ったようにそのために原作よりは鑑賞後の余韻に欠ける物語となってしまったと個人的には少し残念に感じています。さて、みなさんはいかがでしょうか?