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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

海街 diary(2/4)

 マッドマックス 怒りのデスロードがあまりにも面白くて、途中でいろいろ書くことになってしまったので、ようやくこちらに戻ってきた。すみません。

 

落ち着かない自分・惹きつけられる自分

 映画は動く写真として生まれ、まだ、映画として成長する以前から現在とほぼ同様の移動撮影が試みられていた。ズームレンズが開発される前から被写体に向かって近寄ったり離れたりしてもピントを外さない職人技があった。移動撮影は馬や列車の疾走を捉えたり、回り込みや高所への移動など現実と見紛う、または現実では見たくてもできない視点を提供するために使われた。また、移動の変化技として、焦点をある被写体からまた違う被写体へと移せば鑑賞者の視点(問いかけ)もともに移動する。このような視点の移動は作者の表現意図を明確にし、鑑賞者の作品によって呼び起こされる感情や理解を効果的に増幅する。しかし是枝監督の撮影は同様の効果を担ってはいるが、本質的に違う意図を持って使用されていると思われるのだ。

 是枝監督がこのような動くカメラによる撮影方法に開眼したのはどうやら「空気人形」で台湾のリー・ピンビン撮影監督と仕事を共にしてかららしい。(参考:川越スカラ座イベント情報)それまでは動くカメラが好きではなかったというが、この作品で「カメラに対する考え方が深まった」というのだ。これはどういうことなのだろうか。まず、この撮影方法によって得られる上記に紹介した通常の移動撮影で得られる効果以外の効果を考えてみたい。

 私はこの作品でこの撮影方法に気づいた時、少し落ち着かない自分の心と、反対にスクリーンに強く惹きつけられている自分を同時に感じたのである。この鑑賞者の認識の不安定感と問いかけの集中という効果は手持ち撮影と本質的には同じものだと考えられる。手持ち撮影は画面のブレが特徴だが、移動撮影の変化技であると捉えられがちだ。移動しなければブレは生まれないからだ。だが、手持ち撮影の本当の目的は移動ではなくブレることで生まれる効果だろう。

 

手持ち撮影との比較

 手持ち撮影の最大の効果は臨場感だ。カメラを手持ちで撮影するために画面がブレる。そのブレが鑑賞者にまるで作品世界の中にいるような錯覚を起こさせる。蛇足だがしかし、これは臨場感という錯覚と同時に対象の見え方についての錯覚でもある。

 通常私達の生活の上で、自分の視覚のブレを意識することは稀なことだ。それを意識するのは自らの運動能力の限界近くかそれを超えた動きに晒された時だけである。例えばスポーツで激しくプレーした時や転倒や衝突、事故などの時だけである。日常において歩いたり走ったりすれば確かに感覚器官としての視覚は細かくその位置を移動して(ブレて)いる。それはそのことを意識していれば当然のように感じ取れる。だが私たちは通常それを意識しない。また、カメラはある対象にピントを合わせると、その対象の前後の物にはピントは合わずボヤケてしまう。しかし私たちはそのようなボヤケを感じず、常に世界をパンフォーカスで捉えていると感じている。これは人間の視るという行為の構造に理由があることをまず、確認しておこう。

 人間の視るという機能はカメラとモニターの関係とは違う。カメラは対象からの光学的情報を電気的な信号に置き換え、それをモニターでまた映像として再構成するから、再構成された映像はあくまで光学的な情報に基づいている。しかし、人間の場合、感覚器官としての目から入った光学的情報は脳によってその人なりに像として再構成される。そしてこの像は単に映像としてだけではなく、匂いや味、音や触り心地などの他の感覚器官からの情報と同時に合成されるとともに各感覚器官で捉えた対象から連想される記憶やそれに付随する感情までをも合成した1つの世界として再構成される。これを認識という(参考文献・海保静子著「育児の認識学」)。

 余計なことまで確認となったが、要するに人間は単純な光学的な見え方、捉え方をしているのではない。見え方に限定すれば、ブレやピントを常に補正しながら像を創り上げているのだ。だから、普段は世界を手持ち撮影のように見ている人は、ほぼいないはずなのである。けれど、手持ち撮影を見て臨場感があると感じるのは自分たちの視覚も実はブレて動いているということを経験的に知っているからだ。

 この手持ち撮影は、臨場感とともに不安定感を引き起こす。鑑賞者の心はブレる視覚に伴って安定を失い始めるのだ。と同時にカメラが追う対象に強く意識を集中する。あたかも自身が激しく動きながらも心身の正常を保とうとするかのように。人は自分の視覚がいつもブレていることを経験的に知っていると書いたが、経験的に視覚がブレているときはだいたい自身が非日常的な状態にあることも知っている。だから、見ている対象が激しくブレていたなら、逆に心が非日常と錯覚を起こすのだろう。是枝監督の使っている撮影方法による効果もこの手持ち撮影による効果と理屈として同様の構造を持っている。