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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

海街 diary(3/4)

落ち着かない心と意識の集中とは?

 しかし、海街 dialyを観て画面がブレているとは思えないし、落ち着かないと言っても、非日常を意識しているわけではない。それでも意識は強く画面に惹きつけられているのだ。これは、検証してみたわけではなく、あくまで私見であるが、気が付かないほど僅かに動く画面はまるで対象を凝視した時に対象が僅かに迫ってくるようなあの感覚を再現することになっているのではないだろうか。

 対象に強く集中すると、実際の対象との位置関係は変わっていないのにまるでズームアップしたように感じたり、対象が微妙に移動しているように感じたりしたことはないだろうか?手持ち撮影が非日常にある人間の見え方を再現することで見ている者のこころに非日常感を湧き上がらせるのと同様に海街diaryの撮影方法は対象を凝視したときの人間の見え方を再現することで鑑賞者の問いかけを強くする効果を得ているのではないかと私は考えている。

 また、見方を変えれば、通常の固定カメラは対象を客観視し、それを世界(存在)として表現しているが、手持ちカメラでの撮影や僅かに移動するカメラでの撮影は世界を捉えた主観を表現していると言える。

 私達が日常に於いて外界(世界)を視るとき、世界は世界のままにただ存在し、私たちは世界をそのままに視認している(と思い込んでいる)。映画を鑑賞するときはその映画の作品世界を仮の客観的世界として、その仮の世界を媒介として作者の認識を追体験することになる。しかし、ブレる対象を追いかけたり、凝視した時のように動く画面は作者の創造した作品世界(作者の認識)の直接の再現であり、鑑賞者は物語の世界を媒介としながら、直接に作者の視点(認識)を見せられることになる。

 ということは、是枝作品が全編にわたって僅かに動く画面で表現されているということは、是枝作品は作品世界を客観ではなく、主観で表現しているともいえるだろう。だが結局のところ、映画(を含む表現)はそれがドキュメンタリーやルポルタージュであっても(文章表現かそれ以外かを問わず)、作品という実体を媒介とした作者の主観の表現であることに変わりない。

 

次回こそ「海街 diary 」編の最終回。「バードマンとの比較」の予定です。