映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

海街 diary(4/4)

アカデミー賞作品「バードマン」との比較

 もちろん、是枝作品は表現の構造を説明するために撮られたものではないだろう。では、この撮影方法による効果を何のために使ったのかを似たような主観表現という、同様の手法を使った作品、「バードマン」と比較してみよう。

 私は以前のアンドロ・G ・イリャニトゥ監督「バードマン」の解説の中で映画表現における視点は次の3種類あると言った。

1)作品世界内の視点(登場人物の視点や作品世界内を客観的に捉えた視点)

2)作者の視点

3)鑑賞者の視点

 この3つの視点は論理的には3種類であるが、見かけ上は1つである。1つの視点=ショットが3つの意味を持つと言い換えることもできる。

 「バードマン」においては1)の登場人物の視点を繋いでいくことで、その主観を映像化していくということが試みられていた。だから鑑賞者は登場人物の頭の中の世界を直接見ていくこととなる。過去の自分の役柄に囚われた主人公の頭の中の世界は異常なものだ。これに対して「海街 diary」は作者の視点をあくまで表現効果として繋いでいく。こちらは異常などではなく、観る者の心を強くつかむ生々しいものだ。

 「バードマン」は登場人物の主観を映像化してみせることが目的の1つであったと思う。一見、非現実のような場面が現実的な場面とワンカットで繋がれていくところに、この作品の面白さと表現意図がある。もちろん「海街 diary」を撮った是枝監督にそんな意図はないだろう。ここに書いたような客観による表現だの主観による表現だのという小難しい理屈も考えていないだろう。この撮影方法によって得られる独特の効果だけが目的であったのかもしれない。だが、これが人間が見るということの構造の実際を特徴的に再現しているために、鑑賞者は画面に強く惹きつけられるのだ。画面は擬似的な客観世界ではなく、作者の「対象に強く集中してほしい」という認識の対象化、表現なのだ。

 ただ、私はこの作品が好きであると同時に、これからの監督の作品に少しの不安を感じてもいる。この手法を取り続けることへのリスクをである。そのひとつはこの手法と鑑賞者との慣れと飽きだ。鑑賞者は是枝監督の作品であればこの同じ感覚を得られるということの安心感と同時に同じものしか得られないという2種類の期待を持つこととなる。時が経つほど後者の割合は強くなるだろう。映画作品は撮影手法だけで成り立つものではないから、他の要素で新たな魅力を提供すれば良いのだが、この撮影手法がいつまでも武器であるとは言えないのだ。

 もうひとつのリスクはこの手法を使い続けることの作者への影響だ。この手法はただ対話するだけの役者をも生々しく表現するだろう。だが、演者もそれを使う者、捉える者もその効果に慣れてしまわないだろうか?その効果なしでも鑑賞者を強く惹きつける工夫を怠るようにはならないだろうか?

 こんなことは釈迦に説法とは解ってはいるが、是枝監督には人を優しく見つめながら芯のある作品をこれからも見せてくれることを期待してのことである。