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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

天空の蜂

作品評

感性と論理の調和 

 久しぶりに映画に没入した。社会問題、人間性と娯楽性をこれほど高いレベルで調和して見せたのは邦画では黒澤明監督以来ではないかと思う。テンポ良くスピード感にあふれた演出だが、一つ一つの見せ場がどれも質の高いもので、鑑賞者の心を掴んで離さない。そのくせセリフや小道具の中に滑り込ませた問題提起は底の浅い感情論ではなく、論理的なものだ。だから、言葉を変えれば感性と論理の調和とも言える。この論理性の面から言えば、原作のおかげというと失礼かも知れないが、黒澤作品以上であると思う。 

 一見、原発を問題にしたように見える。しかし、問題は2つだ。原発自衛隊。作品は問題に対して答えを出さない。原発自衛隊という問題には正解などない。あるのは選択だけだ。電気自動車に乗り、「私は環境にも配慮できる賢い市民です。」という人々に「その電気自動車を動かす電力はどのように作られているのですか?」と問いかけているのだ。電気自動車に乗ることを否定しているのではない。電気自動車に乗るのなら、その電力がどのように賄われているのかをしっかりと認識したうえで選択すべきだと言うのだろう。自衛隊についても同様である。戦後日本の平和は本当に9条の存在だけで守られてきたのだろうか?また、9条さえあれば、これからも同様の平和が維持できると断言できるのだろうか?メリットだけを享受し、リスクには沈黙する。それは正常なことなのだろうか?これはこの2つの問題提起に共通しながら、全ての社会問題に対する私達の姿勢を問いただすものなのだろう。この作品で言われた、「本当に狂っているのは誰か?」という問いは重い。必要なのに見たくないものを見ようとはせず、いざ自分の問題として突きつけられると激情に流される。私たちは身に覚えがあるはずだ。 

 娯楽性の高い物語の端々に現れる、避けては通れないはずの問題を考えるきっかけをこの作品は与えてくれる。中学生以上なら全ての人にそれぞれのレベルでそれを与えてくれるだろう。それほどの力を持った作品であると思うのだ。惜しいのは問題提起がセリフと文章(犯人の犯行声明)という言葉に偏っているという点にある。もっと、映像で見せてくれたなら、さらに参ってしまったに違いない。原因は原作が小説であることだろう。小説は言語表現、概念の表現であるからだ。それに対して映画は感覚的、感性的な表現である。言葉のように深く表現することはできないが、映画はそれがアニメであってもひとつの世界観の中で、まるで現実であるかのように目と耳から認識へ強烈なメッセージを叩きつけることができる。堤監督にはぜひともオリジナル脚本で同レベルの作品を作って欲しいと期待するのだ。