映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

リトルプリンス 星の王子さまと私

子供大人のファンタジー 

 先日、実写ファンタジー「Pan」とアニメーション作品「リトルプリンス 星の王子さまと私」という2つの作品を続けて観た。子供を対象とした作品におけるデフォルメということに興味があって、2つの作品を比較してみたかったからだ。しかし、2つを観たあと私が思ったのは「果たしてこれは子供向けなのか?」という疑問だった。狙いとしては児童、生徒からその親の世代くらいまでを想定しているのだろうが、子供に対しては難しすぎ、大人に対しては子供っぽく、中途半端なのだ。多分、喜んで観るのは中学生から20代くらいまでの大人になりきれていない人達だけで、かえって顧客の幅を狭めているのと同時に作品の内容を散漫にしているのではないかと思えるのだ。実際に、観客に子供は少ない。このことは日本のアニメの作り方とは概ね反対に位置すると思う。日本のアニメは最初から狙いを絞ることでやりたいことが出来ているようだ。例外はジブリ作品だがジブリについては今回の2作品と同様の比較的幅の広い対象を想定しているものの、商品としての映画というより、作品としてやりたいことをやる側面が強く出ている。見かけは幅の広い鑑賞者層を対象にしているが、実は作品によってそれぞれ狙いを絞っているだろう。「となりのトトロ」と「紅の豚」と「風立ちぬ」では製作年代が違うとはいえ、同じ鑑賞者層を対象にして作られているとは思えないし、逆にそこが受けているように思える。 

 ここで、対象が子供から大人という中の子どもと言っても就学前の児童から高校生くらいまでをひとくくりに子供としてしまうのには無理がある。このような作品の場合、大抵は下はせいぜい小学校の高学年までだろう。小学校低学年以下の児童が理解するには難しすぎる作品が多い。つまりジブリ作品はこの典型で、ジブリ作品を映画作品としてまともに鑑賞できるのは一般的に中学生以上と言っていいいだろう。ジブリ作品は自らの作画に合わせたオリジナル脚本であり、全てが彼らの(宮﨑駿の)スタイルで統一できるから、対象年齢の幅を多少広くみせかけても、狙いは絞られているという芸当もできるのだろう。他の日本のアニメは漫画が原作というものが多い。漫画は対象の幅は年齢ばかりではなく、読者の好みによっても狙いが細分化されているから、その細かな対象に合わせた、より極端な創作が可能となり、アニメ化される際にもその本質をなるべく失わないよう作られている場合が多い。このように日本のアニメ作品は狙いを絞ることで作品の内容を狙いに合わせた質の高いものに出来ているといえる。ところが、今回鑑賞した2つの映画作品についてはそこが曖昧なのだ。 

 「Pan」と「リトルプリンス」はそもそも原作がクセモノだ。両方とも、物語の語り口自体が大人のためのデフォルメがなされている。 

 デフォルメとは本来変形という意味らしいが創作においては主に対象の特徴を強調したり誇張するために行う変形を指す言葉として使われているだろう。子供、特に児童に対する作品におけるデフォルメは、まだ複雑な具体を理解できない彼らのその理解を容易にするためのものだろう。これは昔話が良い例である。桃太郎が川を流れてきた桃から生まれてくるのは、その物語の発生を考えれば様々な解釈ができるだろうが、物語を聞かされる子供にとっては桃太郎がおじいさんとおばあさんの子供になったこと、桃から生まれたので桃太郎と名づけられたことがすんなりと理解できればよいのである。今は昔話を絵本で読むことがほとんどだが、本来は話し聞かせたものだ。聞かされる子供は挿絵の世界も文字による印象も無いところから聞かされたお話の世界を自分で想像しなければならない。その創像が容易になるような工夫がなされているのだ。これでわかるように創作におけるデフォルメとは変形の対象の特徴を強調するための誇張であったり、抽象化であるとも言える。それは視覚像ばかりではなく物語自体(ストーリー)にも適用される。犬、猿、キジが従者になるくだりが繰り返されるのは人のつながりの基本的なあり方を最も単純化し、それを繰り返すことで印象づけるものだろう。近年注目された、成敗された鬼の側にも言い分があるという発想の転換はもっともだが、それは桃太郎を聞いて育った子供が中学生くらいになってから自分で気づくのならそれは素晴らしいことだ。しかし、就学前なら悪いことは悪いとわかればよいのである。しかし、「Pan」と「リトルプリンス」の原作は児童向けの作品とは言いがたい。特に「星の王子様」については体裁は子供向けだが、内容は大人向けである。大人が子供に戻って考える話だ。 

 今回の映画作品に戻ろう。「Pan」はストーリー自体は全体として児童にもわかりやすいものだ。しかし、セリフ回しは難しい。特に、海賊黒ひげの主張は難解だ。しかし、この男の考え方の悪さが簡単明瞭に伝わらなければそれこそお話にならない。ここは映像でカバーしているのだろう。黒ひげは人相も行いもひと目で”悪者”だ。しかし、それを取り巻く世界の描き方が複雑すぎる。複雑すぎて解らないということもあるのだ。 

 私は小学生の頃(だったと思う)、まだ白黒放送のTVでジュディ・カーランド主演の「オズの魔法使い」を見たことがある。当時の小学生にとって、それがモノクロであったこともあって、夢の国の冒険と言うより、不気味な怪物の国に見え物語の筋より、怖かったという印象だけが記憶に残ったものだ。「Pan」も同様だ。というよりも、ほとんど児童の鑑賞には映像の体験性だけで対応していると言って良い。児童の鑑賞に対し最初から内容の詳しい理解を求めてはいないのだ。そして「リトルプリンス」だが、これは児童にも解りやすいデフォルメの効いた作画だ。けれど児童に理解を求めるという目的性は低い。大人子供が失いそうになる子供心に郷愁をはせるその手助けを主な目的としたものだろう。 

「大切なものは目に見えない」ということをすんなりとわかる児童はまれだろう。 

子供でも、この物語の中の登場人物たちの相手に対する共感が大切であることはなんとなく理解できるだろう。しかしそれを論理として現実の生活に適用することは困難なはずだ。 

 物質のように見たり触ったりは出来ないが、確かに存在するといえば、精神の世界に他ならない。物質世界が精神の世界を担い、精神の世界が物質世界を変化、進歩させる。その関係をしっかりと理解したうえで、先の言葉を真に理解できるのは子供ではなく大人であるはずだ。この2つの作品の原作は実は思春期あたりの子供を大人へと成長させるための作品なのではないだろうか。映画は原作とは違った狙いを持って制作されることを否定するものではないが、2つの映画作品はその原作の意味をあまり考慮することなく、単なるファンタジーに仕上げたために狙いの曖昧な作品となってしまったのではないのだろうか。