マイ・ファニー・レディ
人生の帰結
この作品はある女優がインタビューに答えているところから始まる。彼女は記者に「魔法を信じる」と、そして「ハッピーエンドが好き」と何度も答える。ここを見て古い映画ファンなら「もしかしたら?」と思うだろう。私もその内の一人で、見終わったあとには迷わずパンフレットを買った。確かめたいことがあったからだ。そしてしみじみと納得したのである。
原題のShe's Funny That Wayは古いジャズナンバーの題名でもあるそうだ。「もしかしたら?」を確認するために、原題にもあたってみたのだ。その歌詞についてはその道の方の話に耳を傾けたい。勝手にご紹介してしまうが、お許しいただけることを信じて以下を参照していただきたい。きっと、みなさんも納得を深めていただけると思う。
INTERLUDE by 寺井珠重
”ジャズクラブの片隅から…”
対訳ノート(38)「夫婦善哉」の味 She(He)'s Funny That Way
http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2013/08/38she-hes-funny-that-way.html
ここで言う彼女とは誰だろう?もちろん、主人公のイジーのことでもあるけれど、彼女を中心としたラヴ・コメ・ファンタジーの裏にもう一つのピーター・ボグダノヴィッチ監督の思いがしみじみと伝わってくる。彼女とは誰か?この答えを知るには監督のこれまでの人生を振り返ってみることが必要だ。私と同様、パンフレットを購入した方は監督のプロフィールをもう一度確認して欲しい。パンフレットがない方は、「マイ・ファニー・レディ」のオフィシャルサイトに同じく監督のプロフィールが紹介されているのでそちらの方を。
マイ・ファニー・レディ 公式サイト
http://www.myfunnylady.ayapro.ne.jp/director.html
そして、さらに以下を参照して欲しい。
Real Sound
映画>作品評
「マイ・ファニー・レディ」に漂う”優しさ”の由来は?
ピーター・ボグダノヴィッチ監督の過去からの考察
松崎健夫
http://realsound.jp/movie/2015/12/post-601.html
これでみなさんも監督の人柄とその背景の大筋が理解できたと思う。私もこれほど詳しくは知らなかったので松崎健夫さんの解説は大変参考になった。ここから、彼女とは女性たちと監督の人生のことであろうとは誰しも理解できる。だが、監督の人生をこれほど詳しく知らなくとも、「この映画、もしかして?」と古い映画ファンに想像させる要素がもう一つあるのだ。
彼女とは
ピーター・ボグダノヴィッチ監督は抑揚にあふれた私生活だけではなく、その創作においても、安定したヒットメーカーという事はできないだろう。パンフレットにもあるように低迷の時期もあったようだ。低迷の原因は個々の作品それぞれに存在しただろう。ただその視点をもう少し俯瞰して見ると、そこには世界と映画の大きな流れが原因としてあったのではないかと思えてくるのだ。時代が彼の作風に影響しなかった、または時代が彼の作品の評価に影響しなかったとはいえないと想像できるのだ。
パンフレットの田中文人さんの解説によると監督は「ラスト・ショー」(71年)、「おかしなおかしな大追跡」(72年)、「ペーパー・ムーン」(73年)とヒットを続けた後、79年の「セイント・ジャック」(未公開)で好評を得るまでは失敗続きだったようだ。この間の監督の作品は日本では未公開のものばかりのようだから、私にも本当のところはよく解らない。けれど、この監督の不振時期に先立つ66年頃から76年頃までの10年間という時期はアメリカの映画史の中でも特徴的な時期だ。だから、この時期に映画をよく見ていたファンはピンと来るのである。その特徴とはアメリカン・ニューシネマの台頭である。この時期、それ以前の作品とは明らかに作風の異質な作品が現れ、大ヒットする。少し、代表的な作品を挙げてみよう。
1966
「バージニア・ウルフなんて怖くない」
「逃亡地帯」
1967
「夜の大捜査線」
「卒業」
「俺達に明日はない」
1968
1969
「イージーライダー」
1971
「ダーティハリー」
1973
1976
「タクシードライバー」
これは先立つ60年代初頭から69年までにフランスを中心として起こったヌーベル・ヴァーグ(新しい波)の影響なのだが、それを産んだ世界的な時代背景がアメリカ映画にも大きく影響している。この頃といえば、ヌーベル・ヴァーグの中心地であったフランスではアルジェリア戦争があり、アメリカでも人種差別撤廃運動やベトナム戦争で社会は大揺れに揺れていた。日本でも日米安保条約をめぐっての激しい学生運動が起こった時期である。アメリカはベトナムでの初めての敗北感に打ちひしがれていた。俯瞰してみれば第二次世界大戦が終結し、アメリカを中心として世界に対する捉え方において帝国主義的な力ずくでの植民地政策に対する疑念が起こり、反省と修正の必要に迫られている時期である。大衆の意識も特に若者たちの意識が体制への批判に傾いていた時期でもある。そのような時代背景からフランスのヌーベル・ヴァーグはこれまでの映画の歴史遺産を踏まえながらもそこにとどまらない、作家の選ぶ一つの表現形式として映画を発展させようとしたものだった。アメリカでも同様に監督の役割が制作現場を統括するだけでなく、表現形式としての映画の創作を統括するものとする映画製作が行われるようになってきた。ここでは映画はまず商品であると同時に監督を中心とした表現者の作品であることの意味合いが強い。上記の作品を眺めて共通するのは、その時代までの社会通念に対する疑問とハリウッドエンディングの否定だ。この傾向は1977に「ロッキー」が登場するまで続く。
さて、これらの作品をピーター・ボグダノヴィッチ監督の作風と重ねてみよう。皆さんはどう思うだろうか。皆さんがアメリカン・ニューシネマの只中にいるとしたら、彼の作品をどう思うだろう。彼は時代に戸惑ったのだろうか?それとも迷ったのか?当時の彼の作品に未公開が多いため、私に答えはない。しかし、今回の「マイ・ファニー・レディ」を観る限り、彼はここにたどり着いたのだというように思える。彼女とはイジーのことであると同時に、映画のことであろうと私は思う。監督はここへ帰ってきたのだ。紆余曲折を経て尚、自らとともにあり、自らの人生そのものである映画では魔法は信じられるし、やはりハッピーエンドが良いのだと。
ピーター・ボグダノヴィッチ監督は批評家でもある。批評家から監督になったといえば、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールが有名で二人共、言わずと知れたヌーヴェル・ヴァーグの旗手である。これも今となっては少し気の利いた洒落のようだ。
参考文献
熊本大学映画文化史講座編 「映画この百年・地方からの視点」
町山智浩著 「〈映画の見方〉がわかる本」