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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

あやしい彼女  1/2

作品評 映画論

あやしい勘違い 

   楽しめるし、悪くない。倍賞美津子さんと多部未華子さんのつながりに難があるけれど、それでも白目をむいて茹で上がって見せる多部未華子さんはそれを乗り越える魅力がある。しかし、元は大ヒットした韓国映画のリメイクだから、オリジナルより高い評価を受けることは少ないだろうと思う。私個人としてはこっちのほうが好きだ。なぜかといえば日本のほうが脚本の構造をうまく利用できる素材に恵まれているという特殊性があるからだ。物語の表現内容はオリジナルと日本版とでは微妙に違っている。どのように違うかはどちらも良い作品なので是非、観比べてみることをオススメしたい。ただ、本作は製作者の意図したほどの観客動員は得ることは出来ないかもしれない。製作者も鑑賞者も地域や世代の違いによる、普遍性と特殊性の切り分けが難しいために勘違いをしているのではないかと思われるからだ。今回は、この作品における日本的普遍性が世界的に見ると特殊なものではないかという疑問と、この特殊なあり方が日本においても世代を経るに従って普遍的ではなくなって来ている、つまり共感を得られなくなってきているのではないか?ということについて考えてみたい。 

 

難しいリメイク 

 映画表現におけるリメイクすることの目的とは何だろう。それは商品価値の向上ということだと思う。リメイクとはオリジナル作品の高い商品価値や作品性を認めながら、時代や地域の違いによる鑑賞者の受け取り方の違いにあわせた修正を施し、より商品価値(集客力)を高めた作品を再製作することと考えられる。本作はオリジナルの製作からほとんど時を経ておらず、時代的認識の差や技術的発展の穴埋めというリメイクではなく、公開される地域の文化的背景の差を埋めるためのものだ。つまり韓国から日本へ舞台を移し文化的な違和感をなくすための修正を施して日本の観客に受け入れられやすい商品として再製作したものといえるだろう。 

 それは本作では非常に上手くいっている。この物語は口の悪い婆さんが突然20歳に若返り、歌が上手かったことを活かして歌手デビューを果たそうというものだけれど、主人公はただ口が悪いだけではなく、他人を思いやる気持ちからであるということが日本版のほうが良く表現されているし、どうして口が悪くなってしまったのかという背景についても、日本版のほうが共感が持てる。これはリメイクのほうが後だしジャンケン的に有利だというだけにとどまらず、韓国と日本との文化的背景の違いを作者が良く理解しているからだろう。 

 主人公の年齢がだいたい70代だとすると、彼女の20代といえば1950年代後半から1960年代半ばまでということになる。その頃の韓国はといえば、1956年にアメリカの傀儡であった李承晩が大統領に3選している。この政権は1960年に倒れるけれども、その後も軍事政権が続き、形だけではあるが民主的選挙で朴正煕が大統領に選ばれるのが1971年ということになる。そのような軍事政権下の韓国の一般市民の現実的な生活や歌手や楽曲の実際などは日本人にとって肌感覚としては解らない。 

 当時の日本はといえば、1956年に経済企画庁は経済白書で「もはや戦後ではない」と記したが、一般市民の生活はまだまだ戦後を抜けきってはおらず、このあたりから高度経済成長という日本の誰もが死にものぐるいで生活の向上を求める時代がやってくる。高度経済成長という言葉の響きから、それが華やかで明るい時代であったと現代の感覚から想像するのは間違っている。それは希望に満ちた時代であったことは確かだが、現実にその時代を生きた人々にとっては苦しい日々であったに違いない。ただ、希望が持てたからこそ、その時代を乗り越え次の時代を作ることが出来たのだ。それはどの個人にも等しく訪れる青春時代と同様で、思い起こせば甘く懐かしいが現実に青春を生きているときはそれが甘い青春などとは自覚できはしない、苦い思いばかりの日々であるのと同じである。日本人としてはこちらのほうが実感として解りやすい。ただし、そう、但し書きがつくのだが、ちょうど私が1956年生まれなのだけれど、戦後の余韻を受けて育った我々の世代まではという但し書きがつくのではないかと思うのだ。 

 

すばらしい昭和歌謡の歌詞 

 歌は魂で歌うものだというセリフが出てくる。このことの理解も、歌い手が歌詞の理解をどのように歌うかの考え方の微妙な違いがオリジナルと日本版リメイクで良く現れている。ただ、元の脚本が主人公がボーカルを勤めるバンドがデビューできるかどうかの選考にオリジナル曲が必要ということになっているので、日本版では上記の考え方による歌唱の表現のあり方に一貫性がなくなってしまった。しかし、ハッピーエンドのコメディ、つまり御伽噺としては、そこまでうるさく言う必要はないだろう。 

 そして、この日本版を素晴らしい作品にしている第一の要素が選曲にある。これらの曲とその歌詞の素晴らしさが日本の社会の歴史的な背景とその中で青春を過ごした主人公の心を見事に代弁し、また、鑑賞者の共感と感動とを強く揺さぶるものとなっている。冒頭に記した日本の特殊性とはこの事だ。ここからは私の専門外に対する私個人の意見として聞いて欲しい。 

 プレバトという番組は評判だから、みなさんもご存知のことと思う。この番組で人気のある、俳句の毒舌先生の解説は俳句の作り方が素人にも理屈としてはよく解る。この先生の話をまとめてみると、俳句は簡潔でより適切な言葉(概念)を提示することで、鑑賞者の心に具体的な情景を描かせることができるかにかかっているということだろう。更に、良い俳句はこの情景が単に視覚的映像というだけでなく、他のすべての感覚を含めた五感覚に訴えるもので、そのような情景を描かせることで五感覚に付随する感情をも思い描かせるものであるということだろう。吹き抜ける風の感触や花の香から様々な感情が呼び起こされるようにである。このような言葉の表現方法は他の言語でも当然存在するのだろうけれど、少なくとも日本語において重要で特徴的な使い方であることは確かだ。この考え方は、日本の歌謡における作詞にも生きている。そして、特に昭和前期の歌謡曲の歌詞においてはそのような本質的に俳句に似た表現が今よりずっと多かったのではないかと思うのだ。 

 次回は日本版に出てくるこのような特徴の顕著な3曲を具体的に考えてみようと思う。