映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

あやしい彼女 2/2

 日本版の中に出てくる曲で、前回お話したような俳句と似た表現が顕著なのは次の3曲だ。 

見上げてごらん夜の星を 

1963年(昭和38年)発売 坂本九 

原曲は1960年に初演された同名ミュージカルの劇中主題歌。日本レコード大賞作曲賞受賞。 

作詞:永六輔 

作曲:いずみたく 

 

「真っ赤な太陽」 

1967年(昭和42年)発売 美空ひばり ジャッキー吉川ブルーコメッツ 

作詞:吉岡治 

作曲:原信夫 

 

「悲しくてやりきれない」 

1968年(昭和43年)発売 ザ・フォーク・クルセダーズ 

作詞:サトウハチロー 

作曲:加藤和彦 

 

 この3曲の歌詞について具体的に考えてみよう。ただし、著作権に触れるといけないので引用は歌い出しの部分だけとするが、それでもその特徴がよく解るはずだ。どれも覚えやすいメロディに誰にでもわかる行動や情景が歌われる。抽象的な概念ではなく、もう少し具体的で誰でもが経験しているような行動や情景だ。 

 

 「見上げてごらん夜の星を」ではこのタイトルそのままの歌詞で始まる。 

 

  見上げてごらん 夜の星を 

  小さな星の 小さな光りが 

  ささやかな幸せを うたってる 

 

 理由は人によって全て違っても、誰でもそれぞれの思いで夜空の星を見上げたことがあるだろう。だから、「見上げてごらん・・・」と促されれば、その時の思いが湧き上がってくるはずだ。こんなに唐突でありながフレーズ、こんなにも強い歌い出しが他にあるだろうか?思いを込めて夜空の星を見上げたことのある人は誰でもこのhだけで心を一瞬にして掴まれてしまう。このタイトルそのままのフレーズがこの曲の命だ。 

 

 「悲しくてやりきれない」というタイトルはサビの部分で使われる。このフレーズは直接に感情を歌ったものだ。けれど、この誰でもが経験する感情を誰でもが経験するだろう情景から導き出す。 

 

  胸にしみる 空のかがやき 

  今日も遠くながめ 涙をながす 

  悲しくて 悲しくて 

  とてもやりきれない 

 

 この最初のフレーズも前曲と同様だ。胸に迫る思いに誰でもがする経験を歌うことで、聞く者の心を掴んでしまう。この情景と次のフレーズの「悲しくて・・・」は「涙をながす」という人の行動でつながっている。この有様が次の心情表現へと淀みなくつなげている。この時、聞いている者はその心のなかに幾度も遠くの空にそれぞれの思いを馳せる自分の姿を客観的な映像として見ているだろう。それもそれぞれが経験した感覚、感情を伴った具体的な状況だ。涙をながす理由は説明されない。それは聞くものそれぞの心に任されている。たいていは皆それぞれにそんな心情に至る経験を持っているからだ。 

 

 「真っ赤な太陽」は傑作だと思う。 

 

  真っ赤に燃えた太陽だから 

  真夏の海は恋の季節なの 

 

 この「だから」で結ばれた2つのフレーズを良く読んで欲しい。「真っ赤に燃えた太陽」だから「真夏の海は恋の季節」と言うのは考えてみると理屈としてはつながらない。「だから」という言葉はその前文を理由としてその後の文において話の発展や結びを行うものだ。言い方を変えれば「だから」の前後は原因と結果だと言っても良いだろう。しかし、この文ではそのような筋道にはなっていない。どう考えても、「風が吹くと桶屋が儲かる・・・」的な話だ。もはやまともな文章にすらなっていないのだ。けれど、どうだろう、感覚、感情的にはピッタリとハマる。この2つのフレーズだけで聞く者は焼けつく日差しや砂と海水の感触、潮と汗の匂いとともにジリジリとした恋を求める男女の感情さえ湧き上がってくる。 

 

作品の変化 鑑賞者の変化 

 以上の3曲を並べてみると共通するのは最初に言ったように抽象化され過ぎない現実の情景や行動が歌われていることなのだが、これは今も変わりないのだろうか? 

 これを確かめるために、昨年、2015年日本レコード大賞の大賞と作品賞に選ばれた曲を参考にしてみよう。この賞は色々と言われるところもあるけれど、とりあえず昨年ヒットした曲、つまり一般的に支持された曲であることは確かだからだ。ここですべての曲の歌詞を抜粋、引用することはしないが、興味のある方はそれぞれを検索、確認してみて欲しい。上記の点について面白いことに気がつくはずだ。 

 私が書いたような現実の情景や行動による感情の伴った像の誘導に近い表現方法を用いていると言えるのは僅かに大賞をとった三代目 J Soul Brothers の「Unfair World」だけである。逆に他の曲は全て全く違った特徴を持っている。その特徴とは「現実の手触りが少ない」ことである。現実の情景や行動に基づく表現が少なく、ほとんどが頭のなかだけで考えられた、観念的な世界なのだ。かつての曲たちが他人や世界との関係を歌っていたのに対し、今の曲たちは自分の世界だけを歌っているように聞こえる。しかし、このような曲たちが現実に支持されている。これは鑑賞者が変化したのだろうか?作品が変化したのだろうか? 

 

悲しい勘違い 

 このように書くと、「今の若いものは・・・」のような感情的な年寄りのたわごとのように聞こえると思う。しかし、そうではなく、今の状態を良いとか悪いとか言うのでもなく、冷静に私なりの解釈をしているだけだ。すると、実は現実の手触りに欠ける歌詞が受け入れられるような現在の状況が生み出された大元はこの作品「日本版 あやしい彼女」の中に出てくる代表的な3曲が生まれた時代の直後から現れ始めたと言って良いと私は考えている。単純なことだ。1970年台に始まるフォークシンガーに代表される、シンガー・ソング・ライターのブームがそれだ。それまでの曲はプロの作曲家とプロの作詞家が作っていた。彼らはプロの経験と技術で作品を作っている。年齢もそれなりだ。しかし、台頭したシンガー・ソング・ライターたちはみな若い。それまでにない自由な発想で作品を創った。それが若者の共感を得た。なぜなら、創る側も受け取る側も、ともに若く自由でそして現実の経験は少なかったのだ。 

 歌謡曲も映画と同様に表現形式の一つであり、表現という側面と商品という側面を同時に持っている。社会的経験の少ない若者たちにも共感される同世代の表現が商品としても認められ、より多く供給されるのは当然だ。経験に欠けることが悪いのではない。経験に欠けるからこその迷いや希望もあり、そこに多くの共感が得られたという事実があるのだと思う。 

 勘違いの源はここにあると思う。つまり、この作品の肝である、昭和歌謡の歌詞の素晴らしさが今の若い世代の真の共感を得られるとは限らないいうことだ。今の若者も当時の若者も条件は同じだろう。だから、名曲は時代を超えて共感を得るものだと考えるなら、それは間違いであるかも知れない。名曲は時代を超えるかもしれないが、同時代の世代を跨いで共感を得られるとは限らないということだ。私の予想では、この映画を観て共感できるのは現在50代以上の世代がほとんどかもしれないということである。若者の共感を全く受けないとは言わない、しかし、その共感とはなんだろう。歌詞の内容への共感やノスタルジーではなく、レトロ感なのではないのだろうか。 

 この映画を創った人たちは広い世代をターゲットにしたかもしれないが、題材に昭和の名曲を選んだがゆえに、その部分ではオリジナルを超える内容の質の高さを得た反面、そこに共感してくれる多くは高齢者であるという矛盾に見舞われるのではないかと私は考えている。これが私の杞憂なら、現代の若者はかつての私達よりずっと豊かな感受性を持っている言えるのだが。それでも、この作品自体は良く出来ている。なんだかレトロな昭和歌謡に新鮮さを感じただけの若者も、彼ら自身がオヤジ、オバサンになってこの作品をふたたび観る機会があるのなら、きっと涙を流す者も出てくるだろう。 

 

参考文献

 海保静子著 「育児の認識学」

 三浦つとむ著 「芸術とはどういうものか」

        「弁証法はどういう科学か」