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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

君の名は

日本の映画界における今年一番の話題といえば、なんといっても新海誠監督の「君の名は」の大ヒットでしょう。あらゆるメディアで話題となっています。しかし、この作品の興行面でのヒットの要因という話題は多くても、表現、作品としてのまともな評価というものはあまり目にしないようです。では、この作品、単にヒットの様々な今日的要素をうまく組み合わせることが出来た、プロデュースが上手く行っただけの作品なのでしょうか?私は違うと思います。この映画をプロデュースした人は新海誠監督の他にはない得意技をしっかりと理解していて、それを上手く活かしてヒット作品としたのだと考えています。ではその新海誠監督の得意技とは一体何なのでしょうか?

 

 君の名は」における新海誠監督の得意技は新しい映画表現を拓く 

 結論からいうと、新海誠監督はアニメーション作品において、キャラクターの感情表現と鑑賞者の作品世界への二重化を背景の工夫で実写作品以上のレベルに仕上げることに成功したのだと思うのです。 

 少し詳しく説明します。作品の内容については数多く解説されているのでそれらを参照していただき、ここではなぜ背景の工夫が鑑賞者の認識の二重化を強化するのかを私なりの考えとして示していきたいと思います。 

 新海監督の作品は背景の書き込みが緻密なことで知られています。ここが強調されていて、なぜ監督がそこまで背景にこだわるのか、そのことを明確に解説した論にはお目にかかれません。単に彼の特徴なのではなく、少なくとも、本作「君の名は」では確実にある効果を狙って意図的にその手法が使われています。これは彼の過去の作品を見れば明確です。 

 最初期の「彼女と彼女の猫」はモノトーンの短編作品ですが、すでに背景の凄さは現れています。ただし、この頃は明らかに今のような意図があったとは思えません。ここから名作「秒速5センチメートル」まではキャラクターの想いを解説するようなナレーションの非常に多い作品が続きます。特に「秒速5センチメートル」ではキャラクターの心象をナレーションとともに背景で語るような監督のスタイルが完成しています。しかし、まだ、感覚的にその効果を捉えていただけで、それがキャラクターの心象を描くための自分の得意技であり、ハッキリと形として自覚してはいなかったのではないかと思われるのです。なぜなら、次の「星を追う子ども」ではストーリー性の高い作品を目指したのか、それまでの特徴であった、ナレーションを廃し、完成度の高い作品となりましたが、背景による心象表現の効果は非常に薄く、それはジブリの作品と瓜二つのものでした。 

 

 動的環境の表現=緻密な書き込み、動く背景、光と音の演出 

 なぜそうなってしまったかというと、「秒速5センチメートル」までの作品はSFチックなものが多いのですが、それはあくまでも現代社会を土台とした物語でした。しかし、「星を追う子供」は異世界を舞台としたファンタジーです。それまでの作品と比較すると物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離が大きすぎるのです。実はこれが監督の得意技の効果を薄めていたのですが、また、監督はこの作品では意図してその技を質的に半減させていたのかもしれません。そのせいで、監督は自らの得意技の明確な形とその効果を自覚したのではないかと思うのです。では、なぜ物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離がおおきくなりすぎると、監督の得意技の効果が薄まってしまうのか、それは監督の技が私達の日常に非常に近い反映の上に成り立っているために、異世界が舞台では効果が出にくいということと、そのためにこの「星を追う子ども」とその前までの作品では技の使い方が違うのです。それは背景の動きと光と音の使い方にあるのです。 

 ここまで、背景という言葉をキャラクターの住む物語世界の環境における静的視覚情報、つまり背景映像の一瞬を切り取ったそのあり方に限って使ってきました。しかし、映画の背景とは静的な映像に限りません。背景や光が動くということとそこに重ねられる環境音はその場の環境をより立体的、過程的に表現します。映画が動く写真として生まれた時、それを観た人々は映しだされた人物よりも背景の木々の枝が風に揺れ動くのを観て驚いたという話も残っています。実は監督の得意技は背景の描き込みの緻密さだけではなく、その背景が動くこと、そしてそこに重ねられる光と音による鑑賞者のより立体的、過程的な観念的世界の創像にあるのです。 

 ジブリ作品の特徴は背景が緻密でさらに動くことですがそれ以上に深海監督の作品は背景が緻密で動きが多いものです。特に深海監督は演出として動くものを背景に取り入れることがより多いように思います。たとえば木々の枝が動くことで風や空気感を表現することはもちろん、雨、雪、降り落ちる桜の花びら、流れる雲、そして走る電車。また、そこに重ねられる光と影、雨には雨滴の輝きや水たまりのさざめき、ゆっくりと落ちる雪にはグレーの空気感、桜の花びらには輝くような木漏れ日、朝や夕には窓から入り込む直線に縁取られた斜めの光が立体的な輝きを放ちます。そしてそこに適切な環境音が重ねられます。この事によって鑑賞者はより強く作品世界に二重化できるのです。まるで日常世界の延長のようにです。 

 私達の認識は五感覚から得た情報で立体的に構成された像です。この五感覚の情報には必ず感情が付随しています。このような認識(一般的にはいわゆる表象)と感情との関係を表現者(これも一般的にはいわゆるアーティスト)は感性的、経験的に体得しているものですが、新海誠監督は論理的に理解してはいなくとも具体的に自分の得意技として理解しているようなのです。光や背景が動き変化することで、アニメーションの世界がまるで現実世界のように空気感や感触や匂いの感覚と相まっていきいきと創像されるのです。 

 今、ヒット映画やTVドラマの舞台となった場所をめぐる、聖地巡礼ということが流行っています。「君の名は」でも実在の街が舞台となっていますから、映画の場面と実際の町並みの写真を比較されることも多いのですが、すると、必ず作品で描かれた背景は現実の町並みよりデフォルメされて、広く、明るく描かれています。まるで、私達の子供の頃の思い出の風景が実際よりも大きく輝いているのと同じようにです。以前、監督がTV番組で話していましたが、彼の描く背景は実際の町並みを写実するのではなく、思い出の中の風景を描いているのだと言っていました。これが新海監督の得意技の正体です。別の言い方をすれば、彼の得意技は鑑賞者の日常が舞台であることによってより効果を発揮できるものなのです。 

 今回の作品はこのような条件が全てバランスよく揃った作品であったと言えますし、もちろん物語自体も面白かったのですがこの設定を創れたというのも監督自身が自分の得意技をしっかりと自覚したからではないかと思うのです。今回の物語の下地は自身の過去の作品「雲の向こう、約束の場所」にすでに見られます。この作品のキャラクターの関係性をより現実的な設定の上に作りなおしたのが今回の作品でしょう。この辺でも、監督が自分の得意技をしっかりと自覚したことが見て取れるものです。 

 これまで、新海監督は背景(物語世界の環境)を緻密に描くことに腐心して来ましたが、キャラクターの顔とその表情にはあなた任せのところがありました。キャラクター設定を他の人に頼むことが多かったはずです。監督自身はキャクターの表情を描くことが得意ではなかったのかもしれません。今回の「君の名は」でも作画監督とキャラクターデザインは安藤雅司という人が担当しています。この人はスタジオジブリで「もののけ姫」の作画監督をした人です。しかし、安藤監督の手を借りて、新海監督のこれまでの作品では観られなかったほどにキャラクターは表情豊かに動き回ります。ここも今回の成功の大きな要因でしょう。 この辺のバランスを上手くとったのは、川村元気というプロデューサーの力が大きいのかもしれません。しかし、このプロデュースの力で、非常にバランスの取れたヒット作が生まれたことは確かですが、新海誠監督の得意技を「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」と本作とで比べてみた時、そのこだわりが相当に薄まってしまっているということも確かに言えるでしょう。

 この「君の名は」は特別新しい手法を開発したというわけではありません。しかし、上記のような効果を意図して作品の主な手法として使った監督はこれまでいないでしょう。もっと言えば新海監督のこの得意技はこの作品において影の主役と言っても良いものです。黒澤明監督の雪待ちのエピソードは伝説ですが、実写では伝説になるほどに難しい手法がアニメーションでは見事に統一された世界観として提示できることが可能であると証明できたことでも画期的なことであると言えるでしょう。このことについて、プロの世界でも誰も評価していないのは残念なことです。この点が実践者にもこのように具体的に理解できれば、実写映画においても何らかの形でフィードバックされるかもしれないからです。CGがようやく奇をてらった効果ばかりではなく、現実と想像との垣根を取り払う世界観の統一のために使われ洗練され始めてきたのは明らかですから、その可能性は大きいのです。アニメーション映画の世界と実写映画は正反対の方向からお互いに近づいています。新海誠監督はそれをディズニーやジブリとは違った切り口でまた一歩、近づけたと言っていいでしょう。 

できれば、また得意技にこだわりまくった新海ワールド全開のまるで美術館か思い出の世界で映画を見ているようなそんな作品をまた、期待しています。