読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

虐殺器官

設定に疑問 

 私は伊藤計劃という名前を知らなかった。某映画評論サイトでの紹介文で初めて知った。時代を画するような才能を認められた作家が若くしてこの世を去っていたということ、そして彼の作品を原作とした映画作品が公開されるということに興味を持った。だが、それはハード系のSF設定のアニメではありがちの饒舌に過ぎてキャラクターの甘い作品だった。 

 結論から言えば、設定が甘く、人物描写がご都合主義的であるということになる。原作の評価がすこぶる高いようだが、私は未読だからそこについては評価は出来ない。この作品が原作に忠実なものなのか、原作を元に創意工夫を加えたものなのかも解らない。だが、本作が原作に忠実なものであれば、原作者が夭折したこと、原作を10日で書き上げた、病床の約3日で書き上げたというような言説に評価が引きづられているのではないだろうかと思ってしまう。近々原作を確かめるつもりだ。 

 SFの主要な魅力一つに、空想ではあっても統一された世界観というのがある。その中でも技術や世界についての科学的知見の統一感はその作品の肝となるものだ。SFはどんなに荒唐無稽な理屈でもシンプルで強固な筋が一本キチンと通っていれば、後は物語の面白さなのだ。枝葉末節の矛盾に対する揚げ足取りに対しても、物語本来の面白さの前にはどうということもないように思えてしまう。だが、本格の装いの強い作品ほど根本に筋が通っていない部分があると興ざめするものである。私自身はお世辞にも科学に強いというわけではない。その私が科学云々以前の論理の破綻に気づいてしまうのだから、ちょっと首をかしげてしまう。ネタバレになってしまうが具体的に挙げてみよう。 

 この物語の伏線の重要な解答の一つに「虐殺の文法」というのがある。虐殺が行われている地域の会話にはあるパターンが存在するというのだ。それは太古から人類が生存のために育んだ器官が脳に存在し、その発動が会話にパターンとして現れる。ある言語学者がそれに気づき、そのパターン、つまり虐殺の文法を為政者との会話に忍ばせてその行動を方向づけ、その国に虐殺を蔓延させるというのだ。さて、ここに私は疑問を感じてしまうのだ。 

 それは言葉の概念規定への疑問である。”虐殺器官”というが、器官と言うのは実体である。そして脳は実体として存在し、だからこそ一つの器官だ。右脳と左脳の役割が違うということはよく言われることだが、また、右脳だけ左脳だけで役割を果たすことは出来ず、脳幹を含めた全体で体と心を統括するという役割を果たす。となれば、人間の脳にこの物語で言う虐殺の文法に反応する部分が存在するとしてもそれは”器官”ではなく、あくまで脳という器官の部分が反応したり働いたりするのであり、それはあくまで脳という器官の働きであり”機能”と呼ぶべきではないだろうか。 

 人間と他の動物との分水嶺はその行動規範が本能であるか、認識によるものであるかの違いにある。ところが物語上の説明では虐殺の文法の原基形態は人類がまだ、猿からしっかりとは別れていなかった頃に本能に刻まれてきたもののように解釈できる。その頃の、後に人類となるサルたちに言語というもがあったのだろうか。個体の発声による群れの行動が存在したにせよ、それは本能レベルの、外界の変化に群れがパターン的に反応するための信号のようなものでしかなかったのではないだろうか?これと人間の外界を選択的に捉える、問いかけ的認識とは似て非なるものだ。人間は生理的な肉体の統括以外の本能を失うことによって、認識を発生させた。このことで人間は教育され学ぶことによってしか人間にはなれなくなった。しかしだからこそ、自らを犠牲にすることも自殺することも可能になったのである。本能から認識への発展過程において本能的な発声による信号が認識の交換という言語活動に受け継がれた部分があるにしても、自殺や虐殺は本能的なスケープ・ゴートとは論理がまったく違うはずである。この物語はその違いを一緒くたにしてしまっているよう思えるのだ。 

 生まれて間もない赤ん坊は、教えなくても本能的に泳ぐことができるという。しかし、認識の成長とともにその本能も消えてしまい、あらためて教育されなければ泳げなくなってしまう。しかし、そこで学ぶ泳ぎ方は人類の歴史的試行錯誤の結果生み出された技なのである。人間は環境(自然)の一部であるための本能による動きや行動規範の発達の限界に達し、自ら環境を作り出し、その新しい環境に適した体の動きを統括するために限界に達した本能を捨てざるを得なかったのだ。つまり、私にはどうしてもある言語パターンが人間の脳に未だに潜む本能を呼び覚ます、というアイディアに納得出来ないのである。それでは虐殺器官の発生と言語との関係に敵対的な矛盾が生じてしまう。 

 だから、私は今一つこの物語に没入できなかった。専門家ではないから疑問でしかないのだが、私にすら疑問を抱かせてしまう、本格を装ったSFと言うのはどうなのだろう。