映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

La La Land

素晴らしい! 

 ほんとに素晴らしい作品だなと思う。この監督、前作の「セッション」も素晴らしかったけど、ミュージカルがここまでできるとは驚きで、私のような古い映画ファンには涙モノ。何しろ、物語の前におもむろにスクリーンを区切るカーテンが開いて「シネマスコープ!」だから。この辺のことや内容の素晴らしさについては多くの人がコメントするだろうし、ぜひ本物を劇場で見て堪能してほしい。だから私は少し違う観点からの素晴らしさを考えてみたいと思う。 

 

「映画とは何か」を良く解っている 

 映画とは所詮、夢物語だ。この”所詮”というのは決して映画を馬鹿にして「どうせ・・・」という意味で使っているわけではない。「結局のところ」とか「本質的に」という意味だ。 

 映画の草創期、映画は芸術か単なる見世物かで大きな論争となったことがあった。これは映画が見世物として生まれたことと、その発達が映画作りの職人によってなされたこと、そして映画作りには監督という統括者はいても理論的に作者を一人に限定しづらいことなどが大きな原因となった。このブログで昨年の総括と今年の抱負として挙げた映画理論講義(J・オーモン,A・ベルガラ,M・マリー,M・ヴェルネ 著)という著作がある。一応この本が映画理論の教科書的存在となっているらしいのだが、上記の論争から生まれた迷走がこの本に如実に表れている。興味のある方は読んでみるのも良いけれど、きっと何を言っているのわからないと思う。この本を解るという人は事実をしっかりと捉えることのできない人だ。その辺のことはいずれお約束通り私が解説しようと思うのだけれど、何しろ本の内容が多岐にわたり迷走も幅が大きく、いちいち付き合っていられないくらいなものだから、どう整理してやろうかと今、準備中なのだが、結論を言えば、 

「La La Land を観ろ!」 

ということなのである。 

 芸術は芸術だと言ってしまえば芸術であるし、その価値は作り手と鑑賞者の相対的な関係の上で成り立つこと。映画は表現の形式であり、芸術は常に表現と興行の両側面を持っていて映画は興行面が強いだけであること、作り手と語り手がどうこう言うより、役者も撮影も美術も関わる全ての人々の表現を集めてそれらを媒介として一つの作品にまとめあげる、それが監督の役目で、それは監督の心の世界の写し鏡であること。だから、ドラマではなくても、ドキュメンタリーやルポルタージュであってもアニメであっても、それは出演者と演出者の表現を集めて監督の精神を通して表現されたという意味では、心の在り方を集めて作られた「夢」であると言っても良いということ。そのことがこの作品を観れば一発で感覚として理解できる。 

 この監督は映画とはどのようなものかということが良く解っている。それは彼がジャズプレイヤーを目指していたことと大きくかかわっているだろう。理屈をこねくり回す学者より、表現するということを体で解っているのだろう。 

 La La Land というタイトルも粋だ。映画が夢であるだけでなく、ミュージカルは歌とダンスでその場面での登場人物の心の有様を表現するものだということが解っていれば、セバスチャンとミアがわざわざタップシューズに履き替えて踊りだしても、プラネタリウムで中を飛んでも、躊躇もてらいもないのだ。物語世界の現実と登場人物の心の世界との垣根がなく表現される作者の夢の世界なのだ。私たちはその作者達の夢の世界の集合体を監督に導かれながら追体験をする。 

 エンドクレジットに流れる曲の並べ方なんて絶妙だ。使った曲をただ並べるだけでなく、観客が作品の余韻に浸れるように考えて並べてある。彼にとっては3作目は難しいだろうけど、期待せずにはいられない。 

 

追記 2017年03月13日

 さて、前回は「理屈じゃない!」みたいなことを言っていながら、理屈をこねてしまったのだが、二度目の鑑賞での内容についての感想を。一言で言って、 

「なんだか、切ないねェ・・・」 

 シネマスコープとテクニカラーとスタジオセットのような撮影で、明るく、楽しく、ハッピーエンドの'50風ミュージカルかと思いきや、現実はキビシーというお話。なるほど、二度目を観ると、セバスチャンの車がなんだかわからない古いフルサイズのオープンのアメ車で今時カセットテープで音楽を聞いているのに、ミアの車はハリウッドセレブ御用達のプリウスだというのが、単にキャラクターの性格付けのためだけでなく、その性格と将来の姿を象徴していたんだなと、思ったりもする。ストーリー自体はごく単純なものだけれど、作りはやっぱり凝っている。だから、最初のシーンですでに夢をつかむ彼女と過去を引きずってしまう彼の姿が暗示されていたんだなあと思ってしまう。ラストシーンの二人の微笑みの意味を観る者のそれぞれの思いに委ねてあるのは監督の優しさなのかもしれない。 

 好き嫌いが別れる作品なんだなと思うけれど、アカデミー賞が作品賞ではなくて、監督賞というのはアカデミー賞も「まだまだ、捨てたもんじゃない、解ってるねぇ〜!」というところで、こんな風に楽しませてくれる作品、やっぱり、好きだなぁと思う。