映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

素晴らしきかな、人生

確かな登場人物の心象設定 

 ニューヨークの広告代理店を率いて成功したハワードは娘を亡くし、人生を投げ出しているように見える。共同経営者の大親友や苦楽をともにしてきた仲間2人とも口すらきかない。ついに会社は業績を落とし、買収されるしか生き延びるすべはないのだが、ハワードは話を聞こうともしない。そこで3人は一計を案じるのだが・・・。 

 という話の流れだが、彼らの計画に加担する3人の俳優にはハワードを現実世界に引き戻すため、それぞれの役割が課せられる。この俳優たちの役割がハワードだけでなく、彼の3人の仲間たちの人生にもおおきく関わってくるという、非常によく考えられた脚本だ。 

 泣かせることが目的の映画なのだが、核となる4人の登場人物の心象設定が適切で、こういうドラマにありがちな無理がない。中心となるウィル・スミスの役柄、ハワードだけが、ドラマ的にとても深く葛藤を持っているのだけれど、他の3人にもそれぞれの事情と悲しみがある。それらは身近によくありそうな問題だが、それが冗長にならず、しかもしっかりと描かれているのには感心した。 

 ハワードにしても無理がありすぎるわけではない。私個人としてはアメリカ映画によく出てくるグループ・カウンセリングがあまり理解できなかった。よく、同じような悩みを持つ者同士が語り合うことで、思いを共有することができるという説明があるが、それだけでは現実の問題解決にはならない、気休めにしかならないのではないかと思っていた。しかし、本当に辛い現実を受け入れられずに心がそこに立ち止まっている人にとっては、その現実を他人に話すということが、現実を受け入れることと同時に自らをそこから開放することなのだと言うことをこの作品を通して感覚的に理解することが出来た。 

 人の生と死に無意味とか台無しなどということはない。あなたも私も、世界の全ては美しくつながっているという話だと、勝手に解釈したのだけれど。 

 もう一つ、「時間は幻想だ」というのは事実だと思う。 

「え?突然、何を言い出すんだ?」 

と、言う方もいるかもしれないが、それは観てのお楽しみ。 

 世界のあり方は物質が”今”存在しているという瞬間が過程として連続しているという矛盾の統一にある。時間という現象は物が存在するということに付随する性質でしかない。過去と未来は現実には存在せず、それは人間の認識の中だけにある。時間は記憶の中の過去と私達が生きる現在と想像の中の未来とを結び、その距離を計るために人間が編み出した尺度でしかない。その尺度で仮定として時間を計ることがあまりにも当たり前になって、人間は仮定のはずの時間がまるで本当に存在するかのように考えるようになってしまったのである。 

 だから、この作品では、過去に囚われることなく、今を愛して生きることが美しい未来を迎えることにつながるのだと言いたいのだろう。 

オマケ 

 フランク・キャプラの名作を思い起こさせる邦題はいかがなものだろう。こんな、まがい物にするくらいなら、素直に「幸せのオマケ」のほうがよほどマシだったのではないだろうか。何故か?はこれも観てのお楽しみ。