映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

Gifted

天才児教育の歪 

 果たして本当の意味においての天才と言うものが存在するのか?という問題はここではおいておいて、物心ついたときにはある分野に人並み外れた才能を示す人々が確かに存在するという事実を前提としてのお話です。ただし、英語におけるgiftという語が贈り物という意味の他に天賦の才能という意味を持つことを考えると英語圏の更にはキリスト教圏の人々の天才についての一般的な認識は自ずと知れるというものですが。 

 この物語はあるシングルの男、フランクと彼と暮らす姪、メアリーの物語です。自殺してしまった姉の娘を預かることになってしまったフランクは姉を自殺から救えなかった後悔からメアリーについての姉との約束を頑なに守ろうとするのですが、この姪は7歳ながら天才的な数学の才能を表すのです。それを知った彼の母親は孫娘の才能を活かすべきだと彼からメアリーを取り上げようと画策します。フランクと姉との約束とは何か?メアリーの選択は?というのがお話の概略です。 

 天からから与えられた才能はそれなりの活かし方がある。というのがアメリカの考え方なのでしょう。実はフランクの自殺した姉というのは将来を嘱望された数学者でした。彼女は普通の人間として育つことのなかった自分の半生に後悔の念を抱いていました。そして同様の思いを自らの母親にも抱いていたのです。

 7歳の少女に一流大学の学生と同様の教育を大人たちに混じってさせることが本人に取って幸せなことなのか?学問の発展のためには個人の人生を犠牲にしてもいいのか?また、まともな人間として育つことのなかったものに学問の発展に尽くすことができるのか?そして、まともに育つための環境とは?ということへの疑問が優しい語り口ながらも問われている作品なのだと思います。 

 フランクはメアリーとの時間を確保するために大学の准教授という立場を捨て、海の近くに居を移し、自宅近くで半端仕事をしています。最初はメアリーを自宅教育していたようですが、彼女を同世代の友達と遊ばせるために小学校に通わせようとするところから、物語が始まるのです。結局、この作品でフランクは妥協策を取ります。メアリーが望むように自分と彼女の愛猫、フレッドとの生活を確保した上で、メアリーには大学での学びを許すのです。ただ、大学での授業を終えたメアリーを同世代の子どもたちが遊んでいる公園へ連れて行くラストシーンはアメリカがこれまで行ってきた天才児教育への反省が見えるようです。人間一般としての教育の過程とその子にとっての一番の教育、つまり、特殊性と個別性とのバランスをどのように取るかということなんですが、これまでのアメリカでは、天才と言われる子どもたちに対しては人間として育つための一般的な教育など無視して、その子の才能の発達に特化した教育を施してきたのかもしれません。またその正反対の子どもたちは無情に切り捨てられていたのかもしれません。そこに反省と変化があり、それがこの作品の成立に繋がったのかもしれません。しかしながら、現在のアメリカの銃犯罪などのニュースを見るにつけ、現状を覆すには相当の努力と時間がかかるのではないか?などと考えてしまうのです。 

 そういう、穿った観かたをしなくても(図らずもなってしまった)親子の愛情の物語としても優しく心温まる作品です。

 アメリカの視点の変化を感じる作品でした。