映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

永遠のジャンゴ

ジプシー迫害の物語? 

 この作品は音楽映画の性質は持っていても、たぶん、第二次大戦中を生きたジャンゴ・ラインハルトというジャズギタリストを通して描かれた、ジプシー迫害の物語です。 

 ”たぶん”と言うのはこの作品が描きたかったものがジャンゴという人間なのか、その音楽なのか、またはジプシーに対する迫害なのか、それが現象した戦争の不条理なのか、それともその全てなのか?そこがよくわからないからです。その中で私がこの作品の軸として最初から最後まで、たしかに捉えられたのがジプシーに対する迫害の認識だったということです。これは対立するドイツ軍の将校とレジスタンスの両方から表現されています。ところがそれすらも今ひとつ心に残らないのです。現代のマヌーシュ・スウィングの第一人者と言われるストーケロ・ローゼンバーグによって、素晴らしい音でジャンゴの音楽が再現されているにも関わらず。 

 しかし、もしかしたら鑑賞者それぞれのこの作品に対する問いかけ方の違いによって、また違った軸が見えてくるのかもしれません。こんな時、製作者側は「見る人によって様々な捉え方ができる作品」と紹介するでしょう。でも、それで良いのでしょうか?鑑賞者はとかく難解、複雑な作品を良作としがちです。しかし、そうではないと私は思うのです。もしかしたら、作品が難解なのは難しい論理を提示していたり、様々に主張しているのではなく、たんにつくり手の考えが曖昧だったり、優柔不断だったりするだけかもしれないからです。 

 そもそも映画は動く写真として生まれました。それが現在の映画という姿になって、サラウンドを駆使し、2Dが3Dになって、椅子が揺れ動いても、映像や音が作り出す現象を使って過程的に表現するという基本的な形に違いはありません。鑑賞する立場から言えば、瞬間ごとに立ち現れる現象から、作品内容を五感を使って疑似体験するのが映画なのです。内容の背後にある作者の考えは鑑賞後に理解するものでしょう。そして映画が成り立つ過程で経験的に出来上がったその表現の時間的な長さは作品1本が一般的に2時間前後であり、長くても3時間程度でしょう。だとすれば、そんな表現形式に言いたいことをどれだけ詰め込めるでしょうか?映画は文学のような概念の表現ではないし、断続的に鑑賞し続けるのは難しく(*1)、より感覚的で瞬間的に感情に訴える側面の強い表現形式なのです。いくつも言いたいことを詰め込むより、言いたいことが難解な論理であっても、たった一つをシンプルに主張することが馴染みます。そのことによって他の側面をも際だたせることもできるはずです。つまりこの作品が今ひとつ心に残らないのは、作者の主張が絞りきれていないためでしょう。 

 ただ、私はこの作品のすべてを否定するものではなく、上記の点がいかにも惜しいのです。そこを除けば、当時のパリの風俗、認識がよくわかる演出には好感が持てます。決して爆撃、占領と対する抵抗ばかりではなく、その中に娯楽も生きていたことがわかります。また、当時の考え方の通底に優生学の影響からの偏見が強くあったこともしっかりと描かれています。例えば、残虐なファーストシーン、そして身体検査の医者の言葉、 

 「近親者の婚姻による影響・・・・・」 

パーティーでの軍人のセリフ 

 「どうしてあの下等な男と付き合うのか?」 

そして、レジスタンスの男の態度など、このような演出をみても、やはり、作者が一番強く描きたかったのは、当時のジプシーに対する迫害なのでしょう。しかし、素人考えですが、ジャンゴの生き様と苦悩、音楽、そして迫害と、まんべんなく描こうとしたために、エピソードが並べられているだけで、ポイントが薄れてしまっているように思うのです。いや、意図としては、彼の音楽と苦悩を際だたせることで軸であるジプシーへの迫害を浮かび上がらせようとしたのはわかります。が、作者の主張が曖昧なのか、その表現の仕方にメリハリをつけきれない優柔不断なのか、上手く言っているとは思えませんでした。 

*1)オリジナルビデオ作品の連作が映画か?という問題がありますが、それは映画の傍流であり、まだ定まらない特殊な形です。詳しい検討はまたの機会とします。