映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

ロープ 戦場の生命線

部外者の正義

 明確な戦闘シーンなど一つもないのに殺伐とした緊張感がある。紛争地帯の日常が乾いた笑いとともに映し出され、たとえ殺し合いと隣り合わせでも、人が生きていくためのそれなりの日常があることを教えられる。けれど、それは我々の知っている日常とは大きく違う。この物語は作者が考えるその異様な日常の真実を国際援助活動家たちの目を通して描いてゆくものだ。

 脚本が抜群に良いし演出も素晴らしい。ことさら重かったり構えたりしていないのに、内容は深い。物語は最初、ベテランの活動家と新米の若い女性活動家の対比で紛争地帯の異常さを浮き上がらせる。しかし、次にはそのベテラン活動家たちが故郷から引きずってきた日常やそこで作られた認識での人間関係が現地の中で浮き上がることでの対比を見せる。

 いくらやっても無駄に思える仕事をジレンマを抱えながらも命がけで続ける彼らだが、一つの問題解決のために探し求め、やっと手に入れたロープは目標達成目前で管轄が移ったというだけで理不尽にも同じ立場であるはずの国連軍兵士に切断されてしまう。兵士は言う。

「我々は部外者だ」

それでも彼らは、努力が一つずつ人の心を動かすと信じて、待っていてくれる人がいると信じて、また次の問題解決へと向かっていく。活動家たちの目線で描かれた物語はここまでだ。エンディングの曲が流れ始める。

 しかし、物語はここで終わらない。作者の本当のメッセージはエンディング曲の背景で映し出される。ここで彼らの命がけで果たせなかった問題はいともあっけなく、ごく自然に解決されてしまう。本当の問題解決は部外者によってではなく、当事者によって解決されるべきものなのか?しかし、では何もせず、成り行きに任せて傍観していれば良いのか?その問いに一般論として明確に答えることは非常に難しい。それぞれの紛争にはそれぞれの理由があり、個別の問題にはそれぞれに異なった原因があるからだ。それぞれの中で手助けは必要だが、おせっかいになってはいけない。そして、その線引きの判断は綺麗事では済まされない。

 エンディングに流れる「花はどこへ行った」は世界で最も有名な反戦歌だが、「いつになったらわかるのだろう」と歌うこの曲が作られた当時の社会的認識と現代の先進国の社会的認識は大きく変化している。そこではネットが普及し、一般の人々が世界に広がる多くの複雑な問題を簡単に知り得るようになって、戦争や紛争が愚かな行為だとはわかっていても、それが単なる善悪論や感情論では解決しようのないものであることも知っているのだ。では作者はなぜこの古臭い歌をエンディングに選んだのだろうか?それは決して物語を美しい理想で締めくくるのではなく、逆にフィクションではあっても紛争地帯の真実を写した映像と、それとは場違いなほどに抽象化された歌との対比によって、鑑賞者に現実的な視点を蘇らせているのだ。それまで、登場人物たちに感情移入していた鑑賞者はここで鮮やかに問題を俯瞰できる客観的視点に移行させられるのだ。実に見事な演出だ。

 映画を観終わったあと、ただ感傷に浸るのではなく、争いに限らず誰にでもある、それぞれの問題の事実に対して、それでもなお現実に取り組んでいかなければならないことを考えさせられる作品である。