映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス

ある夫婦の形を描く物語 

 この作品はモード・ルイスというカナダの女性画家とその夫の出会いからの半生を描いた作品です。 

  この映画においてモード・ルイスという画家は彼女とその夫との関係を通して夫婦の愛の普遍的な部分を描くための素材に過ぎません。彼女の作品は愛らしく素敵なものであっても、専門家から大評価を受けるようなものではありませんでした。しかし、そのような愛すべき作品を産んだ背景がよく分かる作品となっています。 

 この作品で描かれる二人の出会いは決して美しいものでもなければ大恋愛の末というわけでもありません。それどころか、お互いの都合が噛み合っただけ、悪く言えば打算的なものです。きっかけは夫になるエベレットが家政婦を募集し、モードがそれに応じたことに始まりますが、エベレットはもしかしたら、家政婦の募集はあわよくば安く囲える娼婦と言うような下心もあったのではないかとも思われます。モードは幼い頃から障害を持ち、エベレットは人付き合いが悪く街では変人で通っていたという話ですから、おたがい当時の社会では普通の男女の出会いは望めなかったでしょう。ただ、エベレットは主従を明確にするために威圧的であったり、時に暴力的であったりしますが、同じ部屋に暮らしながらモードを無理やりものにするようなことがないのは心根は自信がなく弱いために虚勢を張っているだけのように見えます。 

 その後のエベレットはモード絵が商売になることを認め、それと同時に彼女のことも認め始めます。そしてそれは愛情に変わってゆくのです。 

 最近は聞かなくなりましたが、以前は離婚の理由に性格の不一致ということを挙げる方が多くいました。しかし、考えてみると性格がぴったりなどという組み合わせはそうそうあるはずがありません。恋愛のときに憧れとともに夢見ていた相手と実際に暮らしてみて見えてくる相手とはかなり違うのが普通です。そんな違いを認めあってお互いを理解してゆく過程で恋愛感情が愛情へと変化し深まってゆくものです。現実にはどうしても折り合いがつかない相手というものもいますが、そもそもそういう相手と一緒になってしまうと言うのはその恋愛があまり冷静ではなかったと言うことになります。ただ、冷静な恋愛などあるのですか?と聞かれれば、答えは場合によりけりでなかなか難しいものですが。 

 話が横道にそれてしまいましたが、そんな夫婦の普遍的なあり方をこの作品は描きたかったのではないかと思います。夫婦の関係も人間関係の特殊なあり方の一つだと言うことなのでしょう。 

 ここで注目なのは住み込みの家政婦として雇ったモード内袋するエベレットの暴力的な態度です。この物語の設定でもかなり特殊な性格として描かれているエベレットですし、映画ですから多少の誇張もあるかもしれませんが、しかし当時の欧米に於いての男性から観た女性、主人から観た家政婦、健常者からみた障害者という関係の根底にこのような考え方があったのではないか?と思わせるところがあます。 

 余談ですが、欧米は歴史的にこのような社会的認識があったからこそ、ことさらに女性の権利向上が叫ばれるのではないでしょうか?日本の女性のあり方が見かけ上、欧米のそれと似ているからと言って、そもそもの女性自身や女性に対する社会的認識が異なる(少なくとも、西欧の考え方が入ってくる明治維新以前までの)日本をとらえて、彼の地と同じシステムが敷かれていないからと言って、後進国だの、野蛮だのと言われる筋合いはないのではないのではないでしょうか?江戸時代以前に女性に対する差別が無かったとは言いませんが現代に求められる女性の社会的地位のあり方とは違った形で欧米に毒されてしまった現代日本より、もしかしたら女性はその権利を社会的に高く認められていたようにも思えます。ですからそのような歴史性を踏まえた上での現代日本の女性独自の自立の形があるのではないでしょうか?