映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

3月のライオン 後編

後編のほうが解りやすい?

 相変わらず、門外漢に将棋そのものの魅力は伝わらないが、プロ棋士の世界の厳しさや対局の激しさは前編より伝わってくるし、人間関係の描き方もジメジメ感が少なくなったように思える。内容的には前作に劣らずドロドロのはずなのに。たぶんテンポと客観性だと思う。 

 もちろん物語映画だから、創作であるし客観性というのもおかしな話だが、創作された物語にも現実世界に準じた世界がある。現実に生きている人間が作者であり、その作者の認識は現実世界という環境によって作られているのだから当然である。まして、映画作品は一般性の高い言語による表現と違い個別性の表現である。客観性が高くなるのは当然なのだ。では、漫画と映画とではどうだろう。 

 本作の原作は漫画である。漫画も画を主として物語世界を表現していくから言語表現よりはずっと個別性が高い。しかし、だからといって物語世界における客観的視点でしか描けないかといえばそうではない。映画よりは比較的に概念性、一般性の高い表現が可能なのだと思う。少女漫画でよくある、突然お花に囲まれて陶酔する登場人物の姿は物語世界における客観視された登場人物ではなく、登場人物の心の目を通して描かれているのは少し考えると解るはずだ。少年の頃、少年漫画は大好きなのに、少女漫画にはどうしても馴染めなかったのはこのせいなのだ。少年漫画の物語世界は主人公の外へと大きく広がっていくのに対し、少女漫画の物語世界は登場人物の心の内側を見つめ、そのつながりに収斂していく。だから少年は少女漫画を理解できない。大人になっても少女漫画の読み方に慣れなければ、なかなか楽しむことは出来ないのだ。 

 本作の原作の手法は後者なのである。私も今ではその違いを理解し、楽しく読めるようになったが、馴染むのには時間がかかった。映画にもその影響が大きい。ここを理解しないと素直に楽しめない人も多いと思う。と言うか、映画では前、後編に分けても、内容に不足感が高い。より正しく楽しみたければ原作漫画を読むほうが良いだろう。 

追憶

昭和の美 

 この作品は鑑賞者を選ぶだろう。物語もそこに登場する人物の描き方もそれほど深いものではなく、今観るとお涙頂戴と映るものかもしれない。だが、この作品はそのように読むよりも心情や背景を観て感じるほうが良いだろう。しかし、そうして観ることで、この作品を「美しい」と思えるのは昭和という時代に青春を過ごした者たちだけかもしれないのだ。 

 私はこの条件に当てはまるけれども、若大将にも寅さんにもほとんど興味がない少年時代を過ごした。劇場映画は時々親が連れて行ってくれた東映まんがまつりや、ゴジラガメラの印象が強い。しかし、当時頻繁にテレビで放映されていたフランス映画やチャプリンヒッチコック作品などはよく観ていたし、私が映画に心を奪われたと思えるのは「2001年宇宙の旅」だった。そして青春時代はアメリカン・ニューシネマとともに過ごしたのだ。だがそんな私でも好みの裏に私を育ててくれた時代の雰囲気が染み付いているものだ。私が観たのは全て、昭和の日本に育った目を通したフランス映画であり、アメリカン・ニューシネマなのだ。だから、この作品を観て「クサイ」とか「情緒的にすぎる」と言いながら、密かに劇場の暗がりで目をうるませてしまう。本当にカットの一つ一つが絵になっている。写真的な美しさではなく、映画的な動的な美しさだ。特にタイトルバックの風景とラストシーンからエンドクレジットへの転換は映像だけで泣けてしまう。 

 この作品の売りはやはり監督、降旗康男と撮影、木村大作のコンビということなのだろう。だから、そこを楽しめる方は存分に昭和の美に泣いて欲しい。 

美女と野獣

エ!こんな感じ? 

全世界で大ヒット!アニメ版は不朽の名作、というフレコミで封切られたのだが、実際に観てみると、「エ!これがその大評判の作品なの?」と思うくらいにつまらない。

 キャラクターの描き方がまったく不充分であるのに、キャラクター各々に無条件で惹きつけられるような魅力があるわけでもない。正直に言うと、箸が転がっても可笑しい年頃の女の子でなければ、特に私のような高齢男性にとっては、観るべきところが無いどころか、何が面白いのかさえ解らないのではないだろうか。

 まぁ、初めから製作者達は私のような鑑賞者を相手にはしていないのだろうけれども、しかし、それにしても酷いのではないかと思えてしまうのだ。個人的には、なんだかおとぎ話を通り越して、胡散臭く感じてしまう。

 私は女子中学生から20代前半あたりの女性たちに聞いてみたいのだ。

「ねぇ、みんなが観てるからというのでなく、本当に面白いと思ってる?」 

ゴースト・イン・ザ・シェル

古い 

 映像としてはもう古いのではないだろうか。原作を大切にしていることは解るが、アジアと日本の描き方がステロタイプ的な古いもので、欧米のファンには安心感はあるものの新しさやインパクトに欠け、アジアのファンにとってはかえって腹立たしく思えるものではないだろうか。

 東アジアの文化は中国、台湾、朝鮮半島、日本、東南アジア、インド等、欧米人から観た見た目は似ていても、中味はそれぞれ大きく違う。そうであるからこそのカオスとしての魅力を放ったのは前世紀の話であり、これらの国々が経済的な発展により、それぞれの文化の主体性を自覚し始めている、そのようなときにこの作品のような映像はありえない。それに、この作品の主役がスカーレット・ヨハンソンに決まったときに、ハリウッドではアジア系の役に白人を使うことについての抗議の声が出たようだが、原作の生まれた当の日本ではそんなことにこだわりを持つものはいなかっただろう。それは日本人の人種や文化に対する考え方の未熟というより、本作の設定の肝と言える機械の体とゴーストの関係性を知っていれば見た目の人種がどう見えようがあまり関係はないからで、原作に対する理解の普遍性においても日本と海外ではそのレベルに大きく違いがあるのだろう。ゴーストをこのようにわざと解りやすくし、古くからのストーリーに落とし入れてしまったのも、西欧的な解釈だ。この映画は現在の日本のファンにとってはハッキリ言って駄作である。 

ハードコア

映像表現的完成度はA級だが、内容はC級 

 主人公の主観視点のみで物語をすすめる作品はこれまでも無かったわけではないらしいが、実験映画レベルではなく、娯楽作品として鑑賞に耐えるものを作り上げるのは相当に難しいだろう。この点に関して本作は非常にレベルが高い。しかし、その手法はシューティング系のビデオゲームそのものだろう。物語の基本的な設定も近頃流行りのありふれたもの。この手法はストーリーが単純な方がいい。なぜなら一人の主観映像だけだから、複数の観点から鑑賞者に状況を客観視させることが出来ない。鑑賞者は物語世界へ移入するのではなく、物語世界の中のただ一人の認識とシンクロする。宣伝用のコピーはここから来ているのだろう。そういう制限がありながら、十分な娯楽性を持っていて、映像表現的な完成度はすこぶる高い。しかし、この娯楽性の部分が人を選ぶ。グロなのだ。最初から最後までグロテスクな暴力と殺人の場面が延々と続く。これを楽しめる人は良いが、少なくとも私は楽しめなかったし、今後も理解したいとも楽しみたいとも思わない。好みはハッキリと別れるだろう。そこを納得の上、鑑賞を。 

ムーンライト

解らない!! 

 正直に言う。これは解らない。たぶん、解ってはいけない作品のように思う。黒人の肌の色を一番きれいに表現できる色彩を工夫したと言うのだが、これはいわゆるシアンを乗せて少し露出を多くしたような色味で、これを称して”ムーンライト”というのだろうけれど、それがキレイかというと、私には最後まで馴染めなかった。どう馴染めないか言葉で表現するのが難しいのだが、少し気持ち悪く、見ていてイライラする。構図や演出などはこれがアメリカ映画なのかと思えるほど静かで時折日本的とさえ思えるところさえあるのだが、その内容が私には理解不能なのである。粗筋を書くことすらなかなかに難しい。イジメの話なのか、ゲイの初恋の話なのか、アメリカ社会の歪の現実描写なのか、一人の男のありふれた人生だと言いたいのか、どう捉えたら良いのか私の世界からは到底理解できないのである。 

 たぶん、この作品の月明かりの青い色には、個人の認識と社会的認識という差はあっても、ゴッホのひまわりの黄色と同様の側面があるのかもしれない。 

パッセンジャー

息苦しい 

 閉塞感と孤独を表現することが目的のはずだから、息苦しさを感じたなら作者にとって成功なのかもしれない。確かに、主人公たちが宇宙服を着て船外に出る場面は世界の縁を覗き込むような底の知れない恐怖と疎外感による孤独とを感じる。だから、そこで人生を終えなければならない者の恐怖も際立ってくる。しかし、私にはそれら作品内容とはまた別の閉塞感、映画表現における閉塞感のようなものを感じたのである。映像的な表現の限界と物語の設定の基本的条件による広がりのなさが、宇宙という無限の広がりを持つ世界での物語のはずなのに表現の内容は人の心の奥底へと狭く深く沈み込んでいく。ラストシーンでの映像が主人公たちの人生が決して孤独ばかりではなかったと、少しの救いを表現しているのだが、それでも少し考えれば、それは果てしない孤独の中のほんの少しの慰めと思えてくる。ジェニファー・ローレンスの演技はそのことを理解し、逃げることの出来ない恐怖と苛立ちをよく表現している。この作品は身動きの取れない高所の恐怖と逃れること出来ない閉所の恐怖をともに持っているのだ。 

 この物語は無限の宇宙を舞台にした壮大な物語ではない。本質は決して逃げ出すことの出来ない迷路に嵌ってしまった男と女の誇りと救いの物語である。悪い映画ではないのだけれど、鑑賞後も解決のつかない息苦しさの残る作品である。