映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

映画とはどういうものか 2

2.始まりの結節点

 

旅の案内書

 旅を始めるなら、地図が必要です。目的もなくさまようのも面白いのですが、「映画とはどういうものか」を知るという目的のある旅ですから、地図と案内書があればもっと良いでしょう。地図は言葉通りの地図とさらにその時代にどこで何があったのかを知るために歴史年表が必要です。それらは、誰でも手に入れることが出来ますし、インターネットで調べることもできるでしょう。けれども、それだけではどこから手を付けてよいかもわかりません。しっかりした案内書が必要です。ここで私は主に2つの案内書を頼る事にしました。個別の作品や作家、事象については多くの参考書を必要としますし、重要なものは折に触れて紹介していきますが、まず、旅の全体の道筋を決めてくれる2つの案内書を紹介しておきましょう。

 

「世界映画全史」 

ジョルジュ・サドゥール著

村山匡一郎 出口丈人 訳

国書刊行会

 

  一つ目はこれです。映画史を学ぶには避けて通れないという名著です。そして大著であり、大労作です。作者のこの資料に対する労力と誠実さには本当に頭が下がります。映画の歴史の初期について、この著作の重要性は計り知れません。現代のように情報を誰でもほぼ自由に検索できる時代とは違い、これだけの情報を纏め上げるにはとてつもない労力が必要であったと考えられます。単に資料を羅列しただけではなく、著者なりの考察も加えており、著者の使命感のようなものさえ感じられます。しかし、残念なのは良い意味で、詳しすぎることとそれがゆえに量が膨大であることです。私のような凡人には通して読んでみても大きく全体を捉えての論理の筋道が立てられない。ということです。そこを立ててみようと考えたのが今回の旅の原点でもあったのですが、旅に迷わないための案内書の中で迷ってしまうという、愚を犯さないためにもう一つの案内書を用意しました。

 

「映画この百年―地方からの視点」

 熊本大学・映画文化史講座/編

 

 こちらの著作は非常に解りやすいものです。映画の歴史の概略です。「カリガリ博士」やチャップリンに大きくページを割いており、映画史を掴むというには偏りと物足りなさを感じますが、あくまでも地方からの視点ということですから、日本の、それも地方の、映画の発展過程が良く解ります。これにより、「世界映画全史」と引き比べることで映画の歴史がより解りやすいものとなるはずです。

さあ、案内書がそろったところで出発です。

 

技術開発と映画の誕生

 最初の目的地は映画の発生地点です。気をつけてください。映画の発明地点ではありません。発生=誕生の地点です。どういうこと?と疑問が出るでしょう。ここが最初に書いた開発者の意図と社会の受け取り方のズレなのです。結論から言えば、動く写真としての撮影技術と映写技術の発明は映画の原基形態の発明であり、映画の誕生ではないと私は考えるのです。

 

 このズレを説明するために一般的に映画の誕生だとされている、エジソンのキネトスコープとキネトグラフ、リュミエール兄弟のシネマトグラフについて少し見ていきましょう。

 キネトスコープは映写機の原型であり、キネトグラフは撮影機。シネマトグラフは撮影機と映写機を兼ねたものです。これ等の開発と公開のどちらが先か、どちらが本当の映画の開発者と言えるのかということがしばしば問題とされますが、しかし、かれらも全くの無から有を生み出したわけではありません。先行する考え方というものがあり、それらを綜合することで新しい時代を開く技術を生み出したのです。それでは彼らの発明の基礎となった考え方や技術とはどのようなものだったのでしょうか? 

映画とはどういうものか

.映画の姿

 

映画の変化

 今、映画のありかたが、大きく変化しています。近年現れた、インターネットによる動画配信サービスが大人気です。2020年からの新型コロナウィルスによる世界的パンデミックにより、人々は劇場へ足を運ぶことが出来なくなり、映画界全体の収益が大幅に減少する中、家庭やモバイル機器で配信サービスを視聴する人々が増え、配信会社独自製作の作品が、数多く創られるようになりました。また、個人の自主製作的な作品もスマホなどの撮影機器の発展と普及、作品を発表するためのYouTubeなどのプラットフォームの充実が膨大な製作費や劇場での上映という壁を取り払い、誰でも自由に映像作品を製作、発表することが出来るようになりました。こうなると映画において当たり前であった条件、映画は大きな映画会社が創るものという考え方や作品の2時間前後という時間的条件と劇場へ足を運ぶという興行形式の条件が曖昧になってきました。配信サービスで、1時間ずつ定期的に連続配信される物語は、今のところドラマと呼ばれています。映画はこのドラマにとってかわられてしまうのでしょうか?また、このドラマと呼ばれているものは映画とは違うのでしょうか?それとも、映画の新しい形なのでしょうか?逆に、YouTube上で流れる数分程度の作品は一般に動画と呼ばれていますが、場合によっては短編映画として紹介されるものもあります。動画と短編映画の違いとは何でしょうか?

 旧来の映画ファンとしては映画館で見る映画のあの特別なワクワク感が失われてしまうのは何とも寂しい限りです。ただ、新しい世代の鑑賞者、視聴者は映画館での鑑賞にそれほど特別な感情を持たないのかもしれません。それはなぜなのでしょうか?映画館はこれから衰退の道をたどることになるのでしょうか?それは映画の消滅の過程なのか、それとも形を変えての発展の過程なのでしょうか。

 これらの疑問に答えるには、そもそも“映画とは何か”ということを明確にしなければなりません。それには映画はどのようにして生まれ、どのように成立し、発展してきたのか、映画の歴史に問わなければならないでしょう。

 

映画とは何か

 映画とは何かと問うなら、”娯楽である“ということでしょう。エジソンリュミエール兄弟等による事の始まりをみても、彼らの意図に反して、社会は彼らの発明を娯楽として受け取ったのでした。この意図のズレについてはのちに詳しく述べるとして、この事実からも映画はその原基形態の発生当初から娯楽であったと解るはずです。しかし、映画は娯楽だというだけでは他の娯楽と何が違うのかわかりません。そして最初の疑問、現在の多様化した映画のありかたの中で映画とそれ以外を区別することはできません。また、映画はその誕生後、幾多の偏見を乗り越えて、新しい時代の芸術として認められたのではないか?単なる娯楽としてしまってよいのか?という疑問も出るでしょう。

 それらの疑問に答えるには、もう少し詳しく“映画とはどういうものか”ということに踏み込んで考えてみることが必要となってくるでしょう。

 どのように踏み込むか?それは映画の誕生から映画がどのように発展し変化してきたかを知る事です。映画はどのようにして映画となったのか?映画はどうして芸術として認められたのか?それを知ることで映画と他の娯楽との違いが明確となり、娯楽と芸術との違いも明らかになるでしょう。

 

 結節点を探せ

 物事の発展はすべて順調になだらかに進むものではありません。皆さんも若いころからの学びやクラブ活動、習い事などを通してそれを実感しているはずです。それまで経験のない新しいことを学ぼう、身に付けようとするとき、基本的な技や知識でも自在に使いこなすためには繰り返しの練習が必要となってきます。マネをすることから始めて練習を重ねていきますが、なかなか身についているようには思えません。しかし、繰り返し練習することで、あるとき突然一つレベルアップしている自分に気づくはずです。この様に一つの技や知識を使うのに必要な要素、筋力やスピード、柔軟性、技の正確な形、知識への多角的な理解など、その技や知識を使うために必要な最低限の条件が揃ったときにはじめて、自分で「できる!」とわかるものです。この様に上達は練習の積み重ねがその者のレベルアップの要素をそろえたときに始めて行われ、レベルが高くなればなるほど積み重ねの期間は長くなり、時にはスランプといった逆に下手になる時期さえもあるのです。

 これは個人の上達に限らず、社会の発展にも言えることです。新たな技術が生まれるためにその構成する様々な要素としての技術の発展が必要です。それらが全て揃ったとき、堰を切ったようにいたるところで同様の技術が生まれ始めるのです。映画の原基形態としての誕生はまさしくこのような状態でした。この様な時点を結節点と呼ぶことにしましょう。

 映画の歴史を考えるとき、その誕生から現在までの全ての作品を把握しておくことは不可能です。しかし、大きく俯瞰して眺めながら、ある時点、またはある一連の作品群の前後で明らかに映画に何らかの発展があった、という点、結節点を見つけ、その前後での違いを見て取ることで、映画がどのような発展を遂げたのかを知ることが出来るはずです。そのような結節点の理解を積み上げてゆくことで映画の現在の姿がおのずと見えてくるのではないでしょうか。

 映画は生まれて130年ほどの歴史しかありません。ですから、映画の歴史とその真実の姿を明らかにする、そのようなことはすでになされていると思っていました。ところが、私が少し調べてみた限り、現在それについて書かれているものは無いようなのです。映画の製作についての理論書は数多くあります。また、ジョルジュ・サドゥールの素晴らしい労作であり大著、「世界映画全史」のように事象や作品を時系列に並べ、それらの考察を加えていくという歴史書はいくつか存在します。しかし、歴史から論理として、映画の誕生と発展過程を示したものは見当たらないのです。見当たらなければ、自分でやってみても良いのではないか?身の程知らずにもそのように考えたのです。私はこれを生業としているわけではありません。だから、誰にも忖度する必要もなければ、時間に追われるわけでもありません。あくまでも、私個人の考えとはなりますが、少しずつでも確実に考えていくことが出来るはずです。

 それでは、映画の姿を求める約130年の旅へ出発することにしましょう。

ちはやふる 結び

青春の輝き 

 最近の中高生向きの恋愛物語とは違い、高校生という一瞬の輝きを切り取った爽やかな物語だ。恋も友情もあるけれど、基本は昔のスポ根ドラマの現代風といって良い。けなしているのではない。それどころか、大好きな作品だと断言できる。青春前期の物語はこれが王道だ。ただ、あえて難点を言えば、主演の広瀬すずちゃん(あえてちゃん付けを許してください)以外は高校生には無理がある人もいることだが、これも、主役の彼女の本当の十代の輝きに免じて許せてしまう。この三部作は物語としても上出来だが、一人の女性の青春の輝きを切り取ったドキュメンタリーとしても観ることができる。たぶん、後年は彼女の代表作の一つとして語られるのだろう。 

しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス

ある夫婦の形を描く物語 

 この作品はモード・ルイスというカナダの女性画家とその夫の出会いからの半生を描いた作品です。 

  この映画においてモード・ルイスという画家は彼女とその夫との関係を通して夫婦の愛の普遍的な部分を描くための素材に過ぎません。彼女の作品は愛らしく素敵なものであっても、専門家から大評価を受けるようなものではありませんでした。しかし、そのような愛すべき作品を産んだ背景がよく分かる作品となっています。 

 この作品で描かれる二人の出会いは決して美しいものでもなければ大恋愛の末というわけでもありません。それどころか、お互いの都合が噛み合っただけ、悪く言えば打算的なものです。きっかけは夫になるエベレットが家政婦を募集し、モードがそれに応じたことに始まりますが、エベレットはもしかしたら、家政婦の募集はあわよくば安く囲える娼婦と言うような下心もあったのではないかとも思われます。モードは幼い頃から障害を持ち、エベレットは人付き合いが悪く街では変人で通っていたという話ですから、おたがい当時の社会では普通の男女の出会いは望めなかったでしょう。ただ、エベレットは主従を明確にするために威圧的であったり、時に暴力的であったりしますが、同じ部屋に暮らしながらモードを無理やりものにするようなことがないのは心根は自信がなく弱いために虚勢を張っているだけのように見えます。 

 その後のエベレットはモード絵が商売になることを認め、それと同時に彼女のことも認め始めます。そしてそれは愛情に変わってゆくのです。 

 最近は聞かなくなりましたが、以前は離婚の理由に性格の不一致ということを挙げる方が多くいました。しかし、考えてみると性格がぴったりなどという組み合わせはそうそうあるはずがありません。恋愛のときに憧れとともに夢見ていた相手と実際に暮らしてみて見えてくる相手とはかなり違うのが普通です。そんな違いを認めあってお互いを理解してゆく過程で恋愛感情が愛情へと変化し深まってゆくものです。現実にはどうしても折り合いがつかない相手というものもいますが、そもそもそういう相手と一緒になってしまうと言うのはその恋愛があまり冷静ではなかったと言うことになります。ただ、冷静な恋愛などあるのですか?と聞かれれば、答えは場合によりけりでなかなか難しいものですが。 

 話が横道にそれてしまいましたが、そんな夫婦の普遍的なあり方をこの作品は描きたかったのではないかと思います。夫婦の関係も人間関係の特殊なあり方の一つだと言うことなのでしょう。 

 ここで注目なのは住み込みの家政婦として雇ったモード内袋するエベレットの暴力的な態度です。この物語の設定でもかなり特殊な性格として描かれているエベレットですし、映画ですから多少の誇張もあるかもしれませんが、しかし当時の欧米に於いての男性から観た女性、主人から観た家政婦、健常者からみた障害者という関係の根底にこのような考え方があったのではないか?と思わせるところがあます。 

 余談ですが、欧米は歴史的にこのような社会的認識があったからこそ、ことさらに女性の権利向上が叫ばれるのではないでしょうか?日本の女性のあり方が見かけ上、欧米のそれと似ているからと言って、そもそもの女性自身や女性に対する社会的認識が異なる(少なくとも、西欧の考え方が入ってくる明治維新以前までの)日本をとらえて、彼の地と同じシステムが敷かれていないからと言って、後進国だの、野蛮だのと言われる筋合いはないのではないのではないでしょうか?江戸時代以前に女性に対する差別が無かったとは言いませんが現代に求められる女性の社会的地位のあり方とは違った形で欧米に毒されてしまった現代日本より、もしかしたら女性はその権利を社会的に高く認められていたようにも思えます。ですからそのような歴史性を踏まえた上での現代日本の女性独自の自立の形があるのではないでしょうか? 

ロープ 戦場の生命線

部外者の正義

 明確な戦闘シーンなど一つもないのに殺伐とした緊張感がある。紛争地帯の日常が乾いた笑いとともに映し出され、たとえ殺し合いと隣り合わせでも、人が生きていくためのそれなりの日常があることを教えられる。けれど、それは我々の知っている日常とは大きく違う。この物語は作者が考えるその異様な日常の真実を国際援助活動家たちの目を通して描いてゆくものだ。

 脚本が抜群に良いし演出も素晴らしい。ことさら重かったり構えたりしていないのに、内容は深い。物語は最初、ベテランの活動家と新米の若い女性活動家の対比で紛争地帯の異常さを浮き上がらせる。しかし、次にはそのベテラン活動家たちが故郷から引きずってきた日常やそこで作られた認識での人間関係が現地の中で浮き上がることでの対比を見せる。

 いくらやっても無駄に思える仕事をジレンマを抱えながらも命がけで続ける彼らだが、一つの問題解決のために探し求め、やっと手に入れたロープは目標達成目前で管轄が移ったというだけで理不尽にも同じ立場であるはずの国連軍兵士に切断されてしまう。兵士は言う。

「我々は部外者だ」

それでも彼らは、努力が一つずつ人の心を動かすと信じて、待っていてくれる人がいると信じて、また次の問題解決へと向かっていく。活動家たちの目線で描かれた物語はここまでだ。エンディングの曲が流れ始める。

 しかし、物語はここで終わらない。作者の本当のメッセージはエンディング曲の背景で映し出される。ここで彼らの命がけで果たせなかった問題はいともあっけなく、ごく自然に解決されてしまう。本当の問題解決は部外者によってではなく、当事者によって解決されるべきものなのか?しかし、では何もせず、成り行きに任せて傍観していれば良いのか?その問いに一般論として明確に答えることは非常に難しい。それぞれの紛争にはそれぞれの理由があり、個別の問題にはそれぞれに異なった原因があるからだ。それぞれの中で手助けは必要だが、おせっかいになってはいけない。そして、その線引きの判断は綺麗事では済まされない。

 エンディングに流れる「花はどこへ行った」は世界で最も有名な反戦歌だが、「いつになったらわかるのだろう」と歌うこの曲が作られた当時の社会的認識と現代の先進国の社会的認識は大きく変化している。そこではネットが普及し、一般の人々が世界に広がる多くの複雑な問題を簡単に知り得るようになって、戦争や紛争が愚かな行為だとはわかっていても、それが単なる善悪論や感情論では解決しようのないものであることも知っているのだ。では作者はなぜこの古臭い歌をエンディングに選んだのだろうか?それは決して物語を美しい理想で締めくくるのではなく、逆にフィクションではあっても紛争地帯の真実を写した映像と、それとは場違いなほどに抽象化された歌との対比によって、鑑賞者に現実的な視点を蘇らせているのだ。それまで、登場人物たちに感情移入していた鑑賞者はここで鮮やかに問題を俯瞰できる客観的視点に移行させられるのだ。実に見事な演出だ。

 映画を観終わったあと、ただ感傷に浸るのではなく、争いに限らず誰にでもある、それぞれの問題の事実に対して、それでもなお現実に取り組んでいかなければならないことを考えさせられる作品である。

永遠のジャンゴ

ジプシー迫害の物語? 

 この作品は音楽映画の性質は持っていても、たぶん、第二次大戦中を生きたジャンゴ・ラインハルトというジャズギタリストを通して描かれた、ジプシー迫害の物語です。 

 ”たぶん”と言うのはこの作品が描きたかったものがジャンゴという人間なのか、その音楽なのか、またはジプシーに対する迫害なのか、それが現象した戦争の不条理なのか、それともその全てなのか?そこがよくわからないからです。その中で私がこの作品の軸として最初から最後まで、たしかに捉えられたのがジプシーに対する迫害の認識だったということです。これは対立するドイツ軍の将校とレジスタンスの両方から表現されています。ところがそれすらも今ひとつ心に残らないのです。現代のマヌーシュ・スウィングの第一人者と言われるストーケロ・ローゼンバーグによって、素晴らしい音でジャンゴの音楽が再現されているにも関わらず。 

 しかし、もしかしたら鑑賞者それぞれのこの作品に対する問いかけ方の違いによって、また違った軸が見えてくるのかもしれません。こんな時、製作者側は「見る人によって様々な捉え方ができる作品」と紹介するでしょう。でも、それで良いのでしょうか?鑑賞者はとかく難解、複雑な作品を良作としがちです。しかし、そうではないと私は思うのです。もしかしたら、作品が難解なのは難しい論理を提示していたり、様々に主張しているのではなく、たんにつくり手の考えが曖昧だったり、優柔不断だったりするだけかもしれないからです。 

 そもそも映画は動く写真として生まれました。それが現在の映画という姿になって、サラウンドを駆使し、2Dが3Dになって、椅子が揺れ動いても、映像や音が作り出す現象を使って過程的に表現するという基本的な形に違いはありません。鑑賞する立場から言えば、瞬間ごとに立ち現れる現象から、作品内容を五感を使って疑似体験するのが映画なのです。内容の背後にある作者の考えは鑑賞後に理解するものでしょう。そして映画が成り立つ過程で経験的に出来上がったその表現の時間的な長さは作品1本が一般的に2時間前後であり、長くても3時間程度でしょう。だとすれば、そんな表現形式に言いたいことをどれだけ詰め込めるでしょうか?映画は文学のような概念の表現ではないし、断続的に鑑賞し続けるのは難しく(*1)、より感覚的で瞬間的に感情に訴える側面の強い表現形式なのです。いくつも言いたいことを詰め込むより、言いたいことが難解な論理であっても、たった一つをシンプルに主張することが馴染みます。そのことによって他の側面をも際だたせることもできるはずです。つまりこの作品が今ひとつ心に残らないのは、作者の主張が絞りきれていないためでしょう。 

 ただ、私はこの作品のすべてを否定するものではなく、上記の点がいかにも惜しいのです。そこを除けば、当時のパリの風俗、認識がよくわかる演出には好感が持てます。決して爆撃、占領と対する抵抗ばかりではなく、その中に娯楽も生きていたことがわかります。また、当時の考え方の通底に優生学の影響からの偏見が強くあったこともしっかりと描かれています。例えば、残虐なファーストシーン、そして身体検査の医者の言葉、 

 「近親者の婚姻による影響・・・・・」 

パーティーでの軍人のセリフ 

 「どうしてあの下等な男と付き合うのか?」 

そして、レジスタンスの男の態度など、このような演出をみても、やはり、作者が一番強く描きたかったのは、当時のジプシーに対する迫害なのでしょう。しかし、素人考えですが、ジャンゴの生き様と苦悩、音楽、そして迫害と、まんべんなく描こうとしたために、エピソードが並べられているだけで、ポイントが薄れてしまっているように思うのです。いや、意図としては、彼の音楽と苦悩を際だたせることで軸であるジプシーへの迫害を浮かび上がらせようとしたのはわかります。が、作者の主張が曖昧なのか、その表現の仕方にメリハリをつけきれない優柔不断なのか、上手く言っているとは思えませんでした。 

*1)オリジナルビデオ作品の連作が映画か?という問題がありますが、それは映画の傍流であり、まだ定まらない特殊な形です。詳しい検討はまたの機会とします。 

人生はシネマティック(原題:Their Finest)

 女性を通して描かれた自立の物語 (少々ネタバレ)

 素晴らしい、よく錬られた作品です。けれど、邦題に惑わされる方が多いのかもしれません。ここは原題に注目です。 

 この作品をコメディであるとか、映画好きのための作品という人がいますが、私は少し違うと思います。コメディ的な要素も、映画好きに向けたというような要素もたしかにありますが、それは作者が第一に表現したかったものではないはずで、基本はしっかりとした人間ドラマです。では、この作品が表現しているものはというと、それは 

 人生の一時を捧げるに値する対象とそれを共有できる者を見つけ、成長し、自立してゆく女性の物語です。 

 そこに要素としてコメディ的な味付けや映画や脚本の制作、そして戦争という背景が加わったということでしょう。第二次大戦中のイギリスが舞台のこの作品、主人公の女性は計らずも戦意高揚のためのプロパガンダ映画の脚本を手がけることとなりますが、軍から要求された映画の条件は 

「信憑性と娯楽性」でした。 

 ところが、取材してみると、素材とされた事実は映画になるほど劇的ではなく、彼女はそれを生活のために粉飾してしまいます。しかし、脚本グループの責任者は隠し事には怒っても、粉飾自体は許します。なぜでしょうか? 

 それは本作の中のセリフとして語られています。 

「映画(物語)は恣意的に構成されているからこそ面白い。」 

のです。 

 この他にもこの作品にはさすが脚本家を描いた作品と言える名セリフがいくつも登場します。上記のセリフがなぜ成り立つのかも語られています。つまり、 

「事実よりも真実」 

を観客に提供することが映画には重要なのです。 

 彼女は次第にこの脚本家に惹かれて行きますが、彼の夢は 

「人生の1時間を捧げても良い作品」 

を創ることです。 

 紆余曲折のあと、完成した作品は単なる戦意高揚映画を超えて素晴らしいものでした。 劇中の作品を鑑賞した婦人は次のように言っています。 

「これは私達のような普通の女性のための映画」 

だと。これはもちろん本作自体が女性の自己確立を描いていることの象徴です。 

 人生の1時間を捧げるに値する作品を創ることを願った彼のように、人間は人生の一時を捧げるに値する対象に出会い、その思いを共有できる仲間を見つけることが最高に幸せなことなのかもしれません。そんな人生を人は「Their Finest」と呼ぶのかもしれません。