映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

ちはやふる 結び

青春の輝き 

 最近の中高生向きの恋愛物語とは違い、高校生という一瞬の輝きを切り取った爽やかな物語だ。恋も友情もあるけれど、基本は昔のスポ根ドラマの現代風といって良い。けなしているのではない。それどころか、大好きな作品だと断言できる。青春前期の物語はこれが王道だ。ただ、あえて難点を言えば、主演の広瀬すずちゃん(あえてちゃん付けを許してください)以外は高校生には無理がある人もいることだが、これも、主役の彼女の本当の十代の輝きに免じて許せてしまう。この三部作は物語としても上出来だが、一人の女性の青春の輝きを切り取ったドキュメンタリーとしても観ることができる。たぶん、後年は彼女の代表作の一つとして語られるのだろう。 

しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス

ある夫婦の形を描く物語 

 この作品はモード・ルイスというカナダの女性画家とその夫の出会いからの半生を描いた作品です。 

  この映画においてモード・ルイスという画家は彼女とその夫との関係を通して夫婦の愛の普遍的な部分を描くための素材に過ぎません。彼女の作品は愛らしく素敵なものであっても、専門家から大評価を受けるようなものではありませんでした。しかし、そのような愛すべき作品を産んだ背景がよく分かる作品となっています。 

 この作品で描かれる二人の出会いは決して美しいものでもなければ大恋愛の末というわけでもありません。それどころか、お互いの都合が噛み合っただけ、悪く言えば打算的なものです。きっかけは夫になるエベレットが家政婦を募集し、モードがそれに応じたことに始まりますが、エベレットはもしかしたら、家政婦の募集はあわよくば安く囲える娼婦と言うような下心もあったのではないかとも思われます。モードは幼い頃から障害を持ち、エベレットは人付き合いが悪く街では変人で通っていたという話ですから、おたがい当時の社会では普通の男女の出会いは望めなかったでしょう。ただ、エベレットは主従を明確にするために威圧的であったり、時に暴力的であったりしますが、同じ部屋に暮らしながらモードを無理やりものにするようなことがないのは心根は自信がなく弱いために虚勢を張っているだけのように見えます。 

 その後のエベレットはモード絵が商売になることを認め、それと同時に彼女のことも認め始めます。そしてそれは愛情に変わってゆくのです。 

 最近は聞かなくなりましたが、以前は離婚の理由に性格の不一致ということを挙げる方が多くいました。しかし、考えてみると性格がぴったりなどという組み合わせはそうそうあるはずがありません。恋愛のときに憧れとともに夢見ていた相手と実際に暮らしてみて見えてくる相手とはかなり違うのが普通です。そんな違いを認めあってお互いを理解してゆく過程で恋愛感情が愛情へと変化し深まってゆくものです。現実にはどうしても折り合いがつかない相手というものもいますが、そもそもそういう相手と一緒になってしまうと言うのはその恋愛があまり冷静ではなかったと言うことになります。ただ、冷静な恋愛などあるのですか?と聞かれれば、答えは場合によりけりでなかなか難しいものですが。 

 話が横道にそれてしまいましたが、そんな夫婦の普遍的なあり方をこの作品は描きたかったのではないかと思います。夫婦の関係も人間関係の特殊なあり方の一つだと言うことなのでしょう。 

 ここで注目なのは住み込みの家政婦として雇ったモード内袋するエベレットの暴力的な態度です。この物語の設定でもかなり特殊な性格として描かれているエベレットですし、映画ですから多少の誇張もあるかもしれませんが、しかし当時の欧米に於いての男性から観た女性、主人から観た家政婦、健常者からみた障害者という関係の根底にこのような考え方があったのではないか?と思わせるところがあます。 

 余談ですが、欧米は歴史的にこのような社会的認識があったからこそ、ことさらに女性の権利向上が叫ばれるのではないでしょうか?日本の女性のあり方が見かけ上、欧米のそれと似ているからと言って、そもそもの女性自身や女性に対する社会的認識が異なる(少なくとも、西欧の考え方が入ってくる明治維新以前までの)日本をとらえて、彼の地と同じシステムが敷かれていないからと言って、後進国だの、野蛮だのと言われる筋合いはないのではないのではないでしょうか?江戸時代以前に女性に対する差別が無かったとは言いませんが現代に求められる女性の社会的地位のあり方とは違った形で欧米に毒されてしまった現代日本より、もしかしたら女性はその権利を社会的に高く認められていたようにも思えます。ですからそのような歴史性を踏まえた上での現代日本の女性独自の自立の形があるのではないでしょうか? 

ロープ 戦場の生命線

部外者の正義

 明確な戦闘シーンなど一つもないのに殺伐とした緊張感がある。紛争地帯の日常が乾いた笑いとともに映し出され、たとえ殺し合いと隣り合わせでも、人が生きていくためのそれなりの日常があることを教えられる。けれど、それは我々の知っている日常とは大きく違う。この物語は作者が考えるその異様な日常の真実を国際援助活動家たちの目を通して描いてゆくものだ。

 脚本が抜群に良いし演出も素晴らしい。ことさら重かったり構えたりしていないのに、内容は深い。物語は最初、ベテランの活動家と新米の若い女性活動家の対比で紛争地帯の異常さを浮き上がらせる。しかし、次にはそのベテラン活動家たちが故郷から引きずってきた日常やそこで作られた認識での人間関係が現地の中で浮き上がることでの対比を見せる。

 いくらやっても無駄に思える仕事をジレンマを抱えながらも命がけで続ける彼らだが、一つの問題解決のために探し求め、やっと手に入れたロープは目標達成目前で管轄が移ったというだけで理不尽にも同じ立場であるはずの国連軍兵士に切断されてしまう。兵士は言う。

「我々は部外者だ」

それでも彼らは、努力が一つずつ人の心を動かすと信じて、待っていてくれる人がいると信じて、また次の問題解決へと向かっていく。活動家たちの目線で描かれた物語はここまでだ。エンディングの曲が流れ始める。

 しかし、物語はここで終わらない。作者の本当のメッセージはエンディング曲の背景で映し出される。ここで彼らの命がけで果たせなかった問題はいともあっけなく、ごく自然に解決されてしまう。本当の問題解決は部外者によってではなく、当事者によって解決されるべきものなのか?しかし、では何もせず、成り行きに任せて傍観していれば良いのか?その問いに一般論として明確に答えることは非常に難しい。それぞれの紛争にはそれぞれの理由があり、個別の問題にはそれぞれに異なった原因があるからだ。それぞれの中で手助けは必要だが、おせっかいになってはいけない。そして、その線引きの判断は綺麗事では済まされない。

 エンディングに流れる「花はどこへ行った」は世界で最も有名な反戦歌だが、「いつになったらわかるのだろう」と歌うこの曲が作られた当時の社会的認識と現代の先進国の社会的認識は大きく変化している。そこではネットが普及し、一般の人々が世界に広がる多くの複雑な問題を簡単に知り得るようになって、戦争や紛争が愚かな行為だとはわかっていても、それが単なる善悪論や感情論では解決しようのないものであることも知っているのだ。では作者はなぜこの古臭い歌をエンディングに選んだのだろうか?それは決して物語を美しい理想で締めくくるのではなく、逆にフィクションではあっても紛争地帯の真実を写した映像と、それとは場違いなほどに抽象化された歌との対比によって、鑑賞者に現実的な視点を蘇らせているのだ。それまで、登場人物たちに感情移入していた鑑賞者はここで鮮やかに問題を俯瞰できる客観的視点に移行させられるのだ。実に見事な演出だ。

 映画を観終わったあと、ただ感傷に浸るのではなく、争いに限らず誰にでもある、それぞれの問題の事実に対して、それでもなお現実に取り組んでいかなければならないことを考えさせられる作品である。

永遠のジャンゴ

ジプシー迫害の物語? 

 この作品は音楽映画の性質は持っていても、たぶん、第二次大戦中を生きたジャンゴ・ラインハルトというジャズギタリストを通して描かれた、ジプシー迫害の物語です。 

 ”たぶん”と言うのはこの作品が描きたかったものがジャンゴという人間なのか、その音楽なのか、またはジプシーに対する迫害なのか、それが現象した戦争の不条理なのか、それともその全てなのか?そこがよくわからないからです。その中で私がこの作品の軸として最初から最後まで、たしかに捉えられたのがジプシーに対する迫害の認識だったということです。これは対立するドイツ軍の将校とレジスタンスの両方から表現されています。ところがそれすらも今ひとつ心に残らないのです。現代のマヌーシュ・スウィングの第一人者と言われるストーケロ・ローゼンバーグによって、素晴らしい音でジャンゴの音楽が再現されているにも関わらず。 

 しかし、もしかしたら鑑賞者それぞれのこの作品に対する問いかけ方の違いによって、また違った軸が見えてくるのかもしれません。こんな時、製作者側は「見る人によって様々な捉え方ができる作品」と紹介するでしょう。でも、それで良いのでしょうか?鑑賞者はとかく難解、複雑な作品を良作としがちです。しかし、そうではないと私は思うのです。もしかしたら、作品が難解なのは難しい論理を提示していたり、様々に主張しているのではなく、たんにつくり手の考えが曖昧だったり、優柔不断だったりするだけかもしれないからです。 

 そもそも映画は動く写真として生まれました。それが現在の映画という姿になって、サラウンドを駆使し、2Dが3Dになって、椅子が揺れ動いても、映像や音が作り出す現象を使って過程的に表現するという基本的な形に違いはありません。鑑賞する立場から言えば、瞬間ごとに立ち現れる現象から、作品内容を五感を使って疑似体験するのが映画なのです。内容の背後にある作者の考えは鑑賞後に理解するものでしょう。そして映画が成り立つ過程で経験的に出来上がったその表現の時間的な長さは作品1本が一般的に2時間前後であり、長くても3時間程度でしょう。だとすれば、そんな表現形式に言いたいことをどれだけ詰め込めるでしょうか?映画は文学のような概念の表現ではないし、断続的に鑑賞し続けるのは難しく(*1)、より感覚的で瞬間的に感情に訴える側面の強い表現形式なのです。いくつも言いたいことを詰め込むより、言いたいことが難解な論理であっても、たった一つをシンプルに主張することが馴染みます。そのことによって他の側面をも際だたせることもできるはずです。つまりこの作品が今ひとつ心に残らないのは、作者の主張が絞りきれていないためでしょう。 

 ただ、私はこの作品のすべてを否定するものではなく、上記の点がいかにも惜しいのです。そこを除けば、当時のパリの風俗、認識がよくわかる演出には好感が持てます。決して爆撃、占領と対する抵抗ばかりではなく、その中に娯楽も生きていたことがわかります。また、当時の考え方の通底に優生学の影響からの偏見が強くあったこともしっかりと描かれています。例えば、残虐なファーストシーン、そして身体検査の医者の言葉、 

 「近親者の婚姻による影響・・・・・」 

パーティーでの軍人のセリフ 

 「どうしてあの下等な男と付き合うのか?」 

そして、レジスタンスの男の態度など、このような演出をみても、やはり、作者が一番強く描きたかったのは、当時のジプシーに対する迫害なのでしょう。しかし、素人考えですが、ジャンゴの生き様と苦悩、音楽、そして迫害と、まんべんなく描こうとしたために、エピソードが並べられているだけで、ポイントが薄れてしまっているように思うのです。いや、意図としては、彼の音楽と苦悩を際だたせることで軸であるジプシーへの迫害を浮かび上がらせようとしたのはわかります。が、作者の主張が曖昧なのか、その表現の仕方にメリハリをつけきれない優柔不断なのか、上手く言っているとは思えませんでした。 

*1)オリジナルビデオ作品の連作が映画か?という問題がありますが、それは映画の傍流であり、まだ定まらない特殊な形です。詳しい検討はまたの機会とします。 

人生はシネマティック(原題:Their Finest)

 女性を通して描かれた自立の物語 (少々ネタバレ)

 素晴らしい、よく錬られた作品です。けれど、邦題に惑わされる方が多いのかもしれません。ここは原題に注目です。 

 この作品をコメディであるとか、映画好きのための作品という人がいますが、私は少し違うと思います。コメディ的な要素も、映画好きに向けたというような要素もたしかにありますが、それは作者が第一に表現したかったものではないはずで、基本はしっかりとした人間ドラマです。では、この作品が表現しているものはというと、それは 

 人生の一時を捧げるに値する対象とそれを共有できる者を見つけ、成長し、自立してゆく女性の物語です。 

 そこに要素としてコメディ的な味付けや映画や脚本の制作、そして戦争という背景が加わったということでしょう。第二次大戦中のイギリスが舞台のこの作品、主人公の女性は計らずも戦意高揚のためのプロパガンダ映画の脚本を手がけることとなりますが、軍から要求された映画の条件は 

「信憑性と娯楽性」でした。 

 ところが、取材してみると、素材とされた事実は映画になるほど劇的ではなく、彼女はそれを生活のために粉飾してしまいます。しかし、脚本グループの責任者は隠し事には怒っても、粉飾自体は許します。なぜでしょうか? 

 それは本作の中のセリフとして語られています。 

「映画(物語)は恣意的に構成されているからこそ面白い。」 

のです。 

 この他にもこの作品にはさすが脚本家を描いた作品と言える名セリフがいくつも登場します。上記のセリフがなぜ成り立つのかも語られています。つまり、 

「事実よりも真実」 

を観客に提供することが映画には重要なのです。 

 彼女は次第にこの脚本家に惹かれて行きますが、彼の夢は 

「人生の1時間を捧げても良い作品」 

を創ることです。 

 紆余曲折のあと、完成した作品は単なる戦意高揚映画を超えて素晴らしいものでした。 劇中の作品を鑑賞した婦人は次のように言っています。 

「これは私達のような普通の女性のための映画」 

だと。これはもちろん本作自体が女性の自己確立を描いていることの象徴です。 

 人生の1時間を捧げるに値する作品を創ることを願った彼のように、人間は人生の一時を捧げるに値する対象に出会い、その思いを共有できる仲間を見つけることが最高に幸せなことなのかもしれません。そんな人生を人は「Their Finest」と呼ぶのかもしれません。 

 

勝手にふるえてろ

新しい社会認識の写し鏡 

 この作品はコメディと紹介されていますが、そうではないでしょう。この作品は恐ろしい社会現象の写し鏡のようです。鑑賞後、悪い作品ではないし、それどころか非常に興味深い作品であると思いました。しかし、この作品を鑑賞した直後の私の心はなんというか、「気持ち悪さ」のようなもので一杯でした。主演の松岡茉優さんが実に魅力的に演じているにも関わらず。けれど、この物語が東京国際映画祭で観客賞を取るほど共感されるなら、主人公のような妄想的人間は男女を問わず普遍的なものになっているのでしょうか。 

 恋愛経験ゼロのOLが妄想の恋と現実の恋との間で暴走するコメディとの解説ですが、妄想が中学生の頃からの片思いの相手だけにとどまらないのは、唐突な会話の展開から鑑賞者にもすぐに見えてきます。その会話の中身も独断的な屁理屈を彼女が一方的に語るばかりで相手の疑問や反論は無いだからなおさらです。ここから妄想の中に逃避する痛い娘が現実に目覚めるコメディかと思いきや、彼女の暴走は単なる恋の暴走だけでは収まらず、だんだん現実世界とのコミュニケーションにおいてはほとんどあり得ない物となっていきます。展開があまりにも恣意的で、まるで登場人物の妄想を描きながら、作者が物語の中で妄想しているかのようなのです。 

「どうして、そうなる?」 

と、思わず突っ込みたくなるような解釈の台詞が続きますが、極めつけはラストシーンの現実の彼との会話です。彼女のあり得ない嘘の告白に彼は 

「そんな、剥き出しの心で相手にしなだれかかるのは・・・」 

と、切り返すのです。 

 現実にはあり得ないほどの、物語の中の本人の興奮度とは裏腹の冷静で素早く、核心的な言葉の選択なのです。 

 今の若者はこんなに頭がいいのだろうか?上記のセリフを聞いたとき私の頭の中は「?????」で一杯でした。 

「論理として、あってる?」 

と思いながら、物語の展開を追っていくうちに理解不能の気持ち悪さが膨れ上がってくるのでした。恋人同士であんなディベートまがいの会話が成り立つのでしょうか?そこに鑑賞者の共感があるのかと思うとさらに気持ちが悪くなるのでした。 

 映画館を出てから、冷静に考えてみると原作者自身がコミュニケーションベタでその経験から得た結論をぶつけているにすぎないようにも思えてくるのです。 

 作品は作者の写し鏡であり、作者はその作者を作り出した環境の写し鏡です。そしてその作品に多くの共感が得られるのなら、それは社会の写し鏡だといえるでしょう。だが、この鏡に映る光景は私が見てきた光景とは大きく異るのです。 

 以前にも書いたことがあると思いますが、「まず、心をひらきなさい」と無責任なことをアドバイスする人がいます。しかし、聞く側にとっては、その前に「心をひらく」とはどういうことかが解らなければ大きな間違いを犯してしまうのではないでしょうか。本当は「心をひらく」とは先入観なしに相手を受け入れることでしょう。しかし、このようなアドバイスが必要な人はコミュニケーションがヘタで孤独な場合が多いはずです。だから、「自分を認めてほしい!」という欲求を強く持っているものです。まさしく、この物語の彼女のようです。そんな人が「心を開く」と聞くと、往々にして、自らの心の剥き出しのありさまを相手にぶつけてしまうことになるものです。結果、周囲はドン引き、本人は更に孤独になり、 

「なぜ?どうして?」 

という疑念と失望だけが残るということにもなりかねません。 この物語はそんな状態を極端に描いたものといえるでしょう。

 「心を開くとはどういうことはか?」ということに解答が得られるのはコミュニケーションベタの人間にとってはそこをある程度克服しなければ得られないものです。だから、相当な努力と時間が必要となってきます。けれど、コミュニケーションに苦手意識のない者にとっては自然、当然のことで、なぜそうなるのかがなかなか理解できません。ということは、この作品のラストシーンのように会話の流れからポッと出て来る答えではないなずだと思うのですが、もし今の若者が皆、このような理解の過程に共感が持てるなら、認識の構造が私とは大きく異なっているに違いありません。それとも、やはりそのような例題と解答とを連ねたマニュアルなどが存在するのでしょうか?いずれにせよ、なんだか気持ち悪さと共に恐ろしいものでした。 

 だが、ここまで来て、ふと気がついたのです。もしかしたら、私にこんな風に考えさせることこそがこの作品(原作も含めて)の本当の狙いなのかもしれないと。 

 まさか、それは考えすぎだと思いたいのですが、この作品を観てからずっと疑念が晴れません。ここで共感される物語の背景に、すでに私には理解のできない新しい世界が広がっていて、だから、私のような取り残された鑑賞者は最初に言われていたのかもしれいのです。 

勝手にふるえてろ!」 

あけまして、おめでとうございます。

あけまして、おめでとうございます。

 

旧年中はだいぶサボっていしまいました。

興味に没頭するのも良いけれど、出力していないと

腕が鈍るみたいですね。

今年は並行して、このブログにもボチボチ書いていこうと思っています。

まずは年末に観た作品について書いておきましょう。

普段、基本的に自分が良いと思った作品だけ挙げて来たのですが、

これは、非常に興味深く、また悪くもないけれど、どう評価していいか

わからない心に引っかかる作品でした。

皆さんはどうでしょう?