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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

チャッピー

あんまり、かるく観てはいけません。

 オープニングとクライマックスのアクションシーンは対立する人間同士、ロボット同士の設定やデザインも含めて「ロボコップ」の完全なパクリ。ここまでパクリだと、何か意図があるのかと勘ぐってしまうが、作品の裏に通ったテーマも「ロボコップ」では人間の認識を移植された機械は人間か?という問いであり、本作ではA.Iで作られた精神は人間の精神と同じか?という疑問だから、ほとんど同じといえる。

 映画は科学ではないから余計なツッコミは必要ないのかもしれないけれど、人間の認識というものは生物体としての生きた人体の五感覚から創られ育てられるものだから、生きた人体から離れて存在することはできないはずだ。仮に機械に認識が芽生えることが可能となったとしても、自ずから人間のそれとは異質なものであると言える。機械の認識における体は人間の体と同様かそれ以上の五感覚器官が必要で、ならば機械でなくクローンか何かのほうが現実味がある。身も蓋もないが。

 この監督の表現意図はもちろんそんなところにはない。「第9地区」では南アフリカアパルトヘイトやそれによる人種間の格差の現実が下敷きとなっており、作品では被差別者は人間ではないエイリアンだ。彼はもちろん黒人がエイリアンだなどと言っているのではなく、被差別者が非人間として扱われている現実を作品に象徴的に投影しているのである。そして最後には主人公の体がエイリアンのそれに変質していってしまう。

 「エリジウム」では富裕層と貧困層の極端な格差を描いている。その格差を乗り越えるのは対立する科学技術の生み出した機械と融合した男だ。

 本作では人間に道具として使われることが目的で作られた人型機械に人間と同様に学習することで自己を確立していくA.I(人工知能)がインストールされてしまう。同様に人間の精神(字幕では意識となっている。論理学的には認識と捉えるべきだろう)が人型機械の体に転送される。これは人間の精神と同じものなのかという疑問が大きなテーマの一つとなっている。

 この監督は一貫して見かけは異質であっても人間としての本質は同じであることを主張しているのだろう。本質とはもちろん精神=こころである。全2作は本質である精神に変わりはないのではないかと主張していた。だが、本作は1歩進めて、精神に違いはあるのか?あるとすればその違いはなぜ生まれるのか?という疑問がテーマである。差別や格差は”違い”から生まれる。その違いとは何なのだろうか?

 本作では最後に本物の人間の精神が機械の体に転送されるということが同時に起こる。2つの機械の体があり、見かけは全く同じなのだが、その中身で人間の本質である精神は一方は人工的に創られたものであり、一方は本物の人間の精神を写したものだ。この人工的に作られた精神が、誰かの精神の合成やコピーではなく、赤ん坊のように白紙の状態で生まれ、環境に育てられたものであるところがミソだ。これは人間の精神の成り立ちと同じではないのか?ある個人の精神は遺伝によって成り立つよりも多くは環境によって創られたものであって、遺伝的な形質の違いによって本質的な違いが生まれるものではない、というのが監督の主張だろう。ここへ来て、冒頭のパクリ疑惑の謎が溶ける。これはパクリではなくオマージュというべきなのだろう。監督は「ロボコップ」に自分と同じ問題意識を見たに違いない。そして先達に大きな影響を受けたに違いない。クライマックスシーンの最後で成り立ちの違う2つの機械人間が並んでいるのは自作と先達とを並べてみせた象徴的なシーンだ。

 そしてラストシーン。道具として造られた機械の体ではなく、失われた愛する人の精神の正しく依代として機械の体が創られていく。ここをどのように捉えるかは、鑑賞者に委ねられているのだろう。

 ちょっと、勝手な深読みのしすぎ?いや、そもそも、映画は表現形式の一つだ。映画は作者の頭の中で創られた世界観が映画というカタチをとって現実世界に現れたものと言える。だから映画を鑑賞するということは作品世界を生み出した作者の精神世界を追体験することだ。これこそ映画鑑賞の醍醐味なのだ。