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映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

メイズランナー

作品評

違う興味が?

 想像していたほど、面白さは無かった。なんか、中身が薄い。でも物語としての面白さより、キャスティングが興味深かった。

 そもそも、映画は表現であるから、創った人間の思いが対象化されている。できた作品は作者の心が映画という形をとって現れたと言える。

 私たちは楽しみの対象として、作者の表現である映画を鑑賞するのだけれど、映画にはまた、商品としての側面もある。この作品は商品として創りが上手い。売れる商品をどう創るかということがよく考えられている。そういう心も作品に現れてくる。中でも一番わかり易いのがキャスティングだ。

 迷路の中と外という対立と迷路の中での保守派と改革派との対立という2つの対立を軸に物語は進むが、迷路の外は支配者で迷路の中は非支配者。迷路の中の保守派は主流派だが支配者に従属の関係を保とうとし、改革派は少数派だが、真実と主体性を求める。もちろんどちらの関係においても主人公は後者の立場を取るのだが、いにしえのハリウッド映画ではこの立場の主人公は白人の偉丈夫と相場は決まっていた。だいぶ前からその相場は崩れ始めていたのだけれど、本作では明確に違う。改革と主体性を求めて迷路からの脱出に成功するのは小さくひ弱な者達で有色人種も多い。

 ハリウッド映画は世界に向けての商品である。だから売れる商品のあり方が変わってきているということは世界のあり方が変わってきているということだ。かつて世界にとってヒーローの姿は白人だった。だが今はもう違うということだ。経済を中心とした実体的な世界の重心が欧米中心からアジアへと移りゆくに従い世界の人々の精神のあり方も変化してきていることが明確になってきたのだ。もう、映画を消費する大多数にとっては単純に白人の偉丈夫だからといって感情移入はできないのだろう。

 さて、多様性の時代だとよく言われるけれど、ハリウッド映画のキャスティングがこれからどのように変化してゆくか、非常に楽しみなのだ。