映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

マジック・イン・ムーンライト

好き嫌いで選ぶのはダメ? 

 これだけ寒い日が続くと、もう随分と前の話のように思えてしまうが、お盆休みの最終日にウディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」を観た。普段、ウディ・アレン物はほとんど見ないんだけど。 

 いつも思うのは、学校の休みの時期は上映される作品が子供向けの作品が殆どとなってしまう。プロの評論家さんたちなら、好き嫌いで作品を選ばず、費用も惜しまず観るというのが正しいのだろうけれど、素人は時間もお金も余裕がない。だから、どうしても作品を選ぶ必要が出てくる。そうするとこの時期は観たい作品がない。それではいけないという反省から、以前に観た「ミッドナイト・イン・パリ」がいつもより自分にとってはマシなほうだったので決心(本当に)したのだ。 

 で、どうだったかというと、ダメでした。作品そのものは悪くはないのだろうし、洒落た構成、演出がキラリと光る作品といえるのだろう。けれど、個人的にダメ。なぜかというと、セリフが多すぎる。特に形容や説明がシツコイくらいだ。それに、登場人物が皆、同じようにおしゃべりばかりなのはどういうわけだ?とりとめのない無駄話を延々と聞かされているようで、途中でイライラしてくる。 

 こういう作品はダメだと言っているのではない。個人的に受け付けないだけだ。こういう映画もあって良いし、演劇ではむしろこういった作品のほうが多い。役者の演劇的技量が試される類の作品だろう。演劇でやれば良い作品と言っているのではない。映画的にきちんと成立している。だが、映像で見せると言うより、役者の演技やセリフ回しで見せる割合の大きい作品であることは確かだろう。その割合がウディ・アレン作品は私にとって大きすぎるのだ。しかし、せっかく観たのだからここは好き嫌いを抜きにして、どのような作品かを自分なりに捉えて置くことが大切だろう。 

 

マイ・フェア・レディ 

 この話、ミュージカルの名作、「マイ・フェア・レディ」の変化技だろう。決してパクリではない。これだけ設定が違えば、もう別の話だ。けれど、ラストで元ネタバラシをやっている。なぜそんなことをするのだろう。何か意味があるのだろうか? 

 「マイ・フェア・レディ」はジョージ・バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」を原作としたブロードウェイの大ヒットミュージカルだ。オードリー・ヘップバーン主演で映画化もされたが、本作のラストでの元ネタバラシではこの映画版「マイ・フェア・レディ」と相似形の演出をしている。元ネタはスリッパで本作はニセのラップ音という違いだけ。両方見た人はすぐにわかる。 

 物語は話し方を教えて生計を立てている音声学者で言語学者のヒギンズ教授が自分の手にかかればロンドンの下町の無教養な花売り娘イライザを半年で一流のレディに仕立てることができると自慢する。同じく言語学者でもあるピッカリング大佐は、それが本当に成功したなら彼女の授業料は全部自分持ちという賭けをヒギンズ教授に持ちかける。賭けはヒギンズ教授が勝ち、彼女は舞踏会でも一流のレディとして振る舞えるようになる。イライザは次第に教授に惹かれていくが、自分も努力して一人前のレディとして振る舞えるようになったのに、未だに自分をまともな人間として扱わないヒギンズ教授に腹を立て、出ていってしまう。当初、賭けのために彼女を教育していたヒギンズ教授も彼女に出ていかれて自分も彼女に好意を持っていたことに気付く。 

 さて、原作の「ピグマリオン」という題名はギリシャ神話に登場する、自ら彫刻した女性の像に恋をする王の名だ。原作では教授とイライザは結ばれない。しかし、舞台版や映画版では観客の好みを考慮して二人が結ばれることを暗示した終わり方となっている。自ら教育した女性に好意を抱いていくような状況をピグマリオンコンプレックスと呼ぶらしいが、原作は二人が結ばれない結末を選んでいるということだ。 

 間違えてほしくないのは、この物語のイライザがどんなに教育しても(当時考えられていた)一流の女性には成りえないということを言っているのではないだろうということだ。教授は粗野な話し方や態度に隠れたイライザの内面の素晴らしさに知らず知らずにひかれていったのだ。その彼女の内面の素晴らしさが自らの教育によって光り輝きだしたにも関わらず、元の粗野な彼女のイメージのままにそれを認めなかった。彼女の成功は自分の教育があってこそであり、教授自身の実力の反映であるとしか考えなかった。それが間違いだったと気づいた時にはもう遅かったというのが原作の結末だ。ここには個人の本質は生まれや育ちにかかわらず、環境や教育によって作られるものという考え方が前提にあると思われる。それはイライザの父親のエピソードにも現れているだろう。彼は無教養にもかかわらず、金持ちへのタカリで培った弁舌をもってアメリカで道徳家として成功してしまう。これはイギリス的階級社会と薄っぺらな教養への皮肉だろう。ところが、舞台版や映画版ではイライザと教授は結ばれてしまうように思われる。この結末にジョージ・バーナード・ショーは最後まで反対していたという。二人が結ばれてしまえば、彼女が教授の教育によって一流の女性となっても、彼女を花売り娘としか見ていなかった教授を認めてしまい、教育の重要性を否定してしまう。それに、一流の女性と言っても、原作では彼女は若い貴族の求婚を受けてしまうだろう。これで、教育によって自立した女性の姿といえるだろうか。この辺りも原作の考えかたを表しているものだろう。彼女の生き方は原作者、ジョージ・バーナード・ショーの階級社会と教育への二重の皮肉であったに違いない。だから結末にこだわったのだろう。 

 では本作「マジック・イン・ムーンライト」ではどうだろう。嘘を真実として生業とする娘占い師ソフィと種も仕掛けもある嘘を生業としているマジシャン、スタンリーの恋物語だ。嘘はそれが真実であると言って初めて嘘になる。嘘やニセモノだと公言していればそれはニセモノとして立派な本物なのだ。 

 で、マジシャンは占い師を教育しないから、ピグマリオンとは関係ないように思える。ただし、彼は彼女に読書を勧め、これからでも変われると説教をするから、ここにも確かにピグマリオンマイ・フェア・レディを意識していることが伺える。マジシャンは一旦は占い師を本当の霊能者だと信じてしまうが最後にはその嘘を見抜いてしまう。しかし、彼はその嘘の後ろに隠れた彼女の素の美しさに魅せられてしまう。つまり、本作での占いという嘘とピグマリオンでの上辺だけの話し方、本作での人を騙すマジックの腕とピグマリオンでの話し方の教育ということを入れ替えてみれば、貧しい境遇で育ち、まともな教育を受けなかった占い師と裕福な家庭で育ち、教養もあるマジシャンとの対比も含めて話の構造はピグマリオンマイ・フェア・レディとほとんど同じなのだ。しかし、ここでは教育や階級社会の問題は小さく退いていて、2つの嘘のあり方の対比が前面に出てきている。ではそれぞれの嘘の下にある二人の本心とはいったい、何を意味しているのだろう? 

 Wikipediaではウディ・アレンは宗教嫌いということらしいし、「ウディ・アレン 宗教」で検索すると彼の実存主義的な考えに基づいたコメントも出てくる(10年前のものだけど)。 

 もちろん、ウディ・アレンが描きたかったのは、そんな小難しいごたくを訴えるための映画ではなく、楽しい一時を観客に与えるロマンチック・コメディだから、そんなことは別にはっきりさせなくても良いのだけれど。だけど、なぜラストシーンでマイ・フェア・レディと相似形の演出をしたのだろう。この物語はマイ・フェア・レディへのオマージュにも皮肉にもなっていないんじゃないかと思う。あれだけセリフを積み重ねながら、おしゃれなロマンチック・コメディでしかない?いや、そうではないかもしれない。が、私には結局彼が何を言いたかったのか理解できないのだ。あれだけ登場人物が訳ありげにしゃべるものだから、何かあるのだろうと思ってしまうのだけれど。もともと彼の作品があまり好きではない私は色眼鏡を外して観ることができないのかもしれない。そんなメガネを外してみれば、もっと素直に彼の作品の魅力を見つけることができるのかもしれない。それで、彼の作品に対する観方が良い方へ変わるなら願ってもないことなんだけど。 

 (けれど、この作品がそうだとは私には解らないのだけれど「ここにはこんなオマージュが作り込まれているし、ここにも、ここにも・・・」というのであれば、参考までには聞いておくけれど、観方は変わらないでしょう。私はどうもオマージュ当てを自慢する一部のマニア向けの面白さにはついていけないのです。そういう面白さもあっていいと思うけど、それは1本の映画作品として成り立っていての話。オマージュ探しのためのオマージュはなんだか虚しい内輪受け、同族相憐れむ感じで好きになれない。好き嫌いではダメですか?)