映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

マッドマックス 怒りのデスロード (2/3)

マッドマックスへ繋がる2つの系譜

 カーチェイス

 いかなジョージ・ミラースタイルといえども、全く何もないところから生まれてきたわけではありません。この作品に繋がるポイントとなる作品をいくつかご紹介しておきましょう。

 1つめの系譜マッドマックスシリーズを通して重要な役割を担っているのが車であり、カーチェイス。しかし、全編ただ走るだけ、走りっぱなしで話を創ってしまうという作品はそう多くはありません。カーチェイスは映画草創期のスラップスティックコメディに於いて追っかけの1つのスタイルとして定着、発展し、現在につながっていますが、その歴史の代表としてまず挙げられる作品といえば、1968年ピーター・イェーツ監督、スティーブ・マックイーン主演の「ブリット」でしょう。マックイーン演じる刑事ブリットとともに彼の乗るマスタングは準主役と言ってよく、同型車は今でも人気があります。しかし、まだ、カーチェイスは物語を演出する部分であって主体ではありません。

 翌1969年、バイクを使ったロードムービーデニス・ホッパー監督、ピーター・フォンダ主演のイージー・ライダーが公開されます。この作品はカーチェイスものではないのですが、全編がバイクでの旅として描かれています。今から思えば稚拙な想いといえばそれまでですが、まだまだ若いアメリカの本当の自由への渇望、開放、逃避の象徴として、バイクでの旅が描かれています。当時の現実のアメリカと世界という背景がわからないと、なかなか理解出来ない作品ですが、ロックのヒット曲の歌詞をメッセージとするやり方は、これも時代とハリウッドへの反抗の象徴でした。既製品のハーレーを切り繋いで自由に創り上げたチョッパーという改造バイクでの旅は映画の主軸をなすもので、当時の若者のあこがれとなりました。日本でも一時、チョッパースタイルのバイクはブームとなりましたね。ヨーロッパから巻起こったヌーベル・バーグはアメリカ映画では反ハリウッドとしてのアメリカン・ニューシネマを産み、イージー・ライダーはアメリカン・ニューシネマの傑作となったのです。(おすすめ参考文献 町山智浩著・〈映画の見方〉がわかる本)

 そして、生まれたのが、1971年製作、リチャード・C・サラフィアン監督、バリー・ニューマン主演のバニシング・ポイント創った当人は上記2作の影響など考えてはいなかったでしょうけど。青春の反抗や開放のムーブメントは虚しさも産みました。その頂点とも言えるのがこの作品です。全編、車の疾走と音楽。理由などは些細でくだらない。そして人生も。多くを語りたくはない作品です。観れば解ります。

 もう1つ全編走るだけで話を創ってしまった作品として、1971年のテレビ映画、スティーヴン・スピルバーグ監督、デニス・ウィーヴァー主演の「激突」を挙げておかなくてはなりません。カーチェイスかと言われると少し違うのですが、車の追っかけだけで、これだけの恐怖を演出した作品は他に類を見ません。サスペンスやスリラーと言うより、ホラーと言ってもいいくらいです。傑作です。奇しくも「バニシング・ポイント」と同年の製作です。人間が最も恐れるのは目に見えない物、得たいのしれない物、未知のものです。その最たるものが未来と死でしょう。2つの作品はそんな不安が渦を巻いていた、そんな時代が求めていたと言えるかもしれませんね。

マッドマックス 怒りのデスロード (1/3)

映画スタイルの誕生

 面白い!緊張感が途切れることなく、最後まで飽きさせない。シリーズ最高傑作の評判は嘘ではないですね。最高に楽しめる、これぞ映画!という作品です。

 映画は動く写真として生まれたと言うのは弁証法の大家、三浦つとむさんの名言(著書:芸術とはどういうものか)ですが、動く写真を撮影できるという発明と撮影機械を売り込むための見本として上映された、本物ソックリの走って来る列車に観客は仰け反って身を避けようとしたという話は有名です。この動く写真の魅力の原点を今の認識で最高に高め凝縮したのがこの作品。つまり、この作品は映画の原初的魅力で溢れている、いや、その魅力を突き詰めるために物語があるといえます。この魅力については多くの専門家が語るでしょうから、私はちょっと違う視点から考えてみることにしましょう。

 シリーズ最高傑作と言われますが、昔からのファンは知っている通り、1作目と2作目には大きな溝があります。別物と言っても良い。1作目は物語が主でアクションは従であると言ってもいいでしょう。ある男の生き様の物語。しかし、2作目は主従が逆転します。アクションを活かすための物語。監督が本当にやりたかったのが2作目なのか、それとも1作目のカーチェイスを土台としたバイオレンス・アクションの評判が良すぎたための興行方針としての2作目なのか、私にはどちらかはわからないけれど、この監督はここで本領発揮となるわけですね。ここで抑えておきたいのは、2作目の舞台設定です。何でもありのアクションを無理のない話にするための統一された世界観とは何か?ジョージ・ミラー監督は考えたんですね。

 核戦争後の荒廃した世界。この世界観、誰が最初に考えたのか、これも私にはわからないけれど、この作品をきっかけにその後ジャンルを問わず多くの作品に強烈な影響を与え続けることとなります。この作品は映画において新しく普遍的な世界観を作り上げてしまった結節点的な作品とも言えるでしょう。専門家の方たちはとかく内容だけから作品を評価しがちだけれど、映画の歴史から見るともっと評価されて良いシリーズではないでしょうか?この物語の設定のおかげで、彼のカーチェイスを土台としたバイオレンス・アクションは単なるアクションの類型からジョージ・ミラースタイルというべきものになったと言えるでしょう。

 で、はっきり言って3作目は毒気が薄れて個人的には面白いとは言えないものでした。毒気や恐ろしさという面では1作目も当時としては衝撃的で、決して2作目に劣るものではなかったのですから、興行面を考えすぎて方向を間違ってしまったのでは?と思えたものでした。ところが本当に30年の月日を経て、この狂気の世界観が3倍パワーアップして帰ってきたんですね。スゴイことです。もしかしたら、この月日こそが、監督が自作の魅力を冷静に観て、いろんな意味でそれを実践するのに必要な時間だったのかもしれません。この作品はこれ単体でも十分に楽しめますが、前作を未見の方は、ぜひ、ご覧になってください。映画表現の新しいスタイルの誕生を実感することができるはずです。

 

海街 diary(1/4)

邦画は解りにくい(ものもある)

 正直に言えば、私は是枝作品を観たのはこれが初めてだ。だが、いっぺんで好きになった。食わず嫌いだったというわけではない。機会がなかった。ハリウッド作品などに比べ邦画はわかりにくい。欧米の鑑賞者の娯楽より作者の表現に力点をおいた作品にはその美術史の影響か、象徴という表現手法が多用される。これは映像の裏に隠された作者の意図を映像の中のある対象を媒介として類推させようとするものだ。映画史上最も雄大な場面転換として知られる「2001年 宇宙の旅」における、猿人の投げ上げた骨が突如変化する軌道上の衛星兵器は人類と科学技術の進歩とそれにかかわる歴史的過程の象徴だ。のみならずこの作品はいたるところ象徴だらけだ。この手の作品は一見難しそうに思えるが、要領さえ掴むと意外にわかりやすい。ところが邦画はそうは行かない。象徴などという小賢しい手法は使わないからだ。映し出される対象のあり方や動き、登場人物の行動や会話など、鑑賞者が作品世界に身を置いて感じとらなければならない。言い方を変えれば、作者(監督は全てのスタッフの創造の統括者としても、そしてもちろん演者も)の頭の中で創造された作品世界を追体験しなければならない。つまり、邦画は一般により鑑賞力が要求される(ものが多い)のではないかと思う。

 そんなわけで、しっかり考えて創っていそうな是枝作品は当然、鑑賞にもそれなりの構えが必要ではないかと考えてしまう。要は「難しそうで楽しめないんじゃないの?」と二の足を踏む思いで、今まで観る機会を逃してきた。ところが今回の鑑賞でちょっと惚れてしまった。柔らかく優しいのに、鑑賞者を強く惹きつける是枝作品は象徴などというよりももっと効果的で映像的な手法を使っていることが理解できた。今更と思われるかもしれないが、それはどのショットにおいてもカメラが移動しているという撮影方法である。

 

本質的に似て非なる移動撮影

 この作品は心の描き方も、背景を含めた対象の撮り方も素晴らしい。美しい女優たちの演技も素直で好感の持てるものだった。けれど、それらを特に引き立てているのがこの撮影方法にあると思う。

 微妙にカメラを動かす手法は別に珍しいものではないが、多分、ほぼ全編にわたってこの手法を使っている作品は、そう無いのではないかと思う。その移動は本当にゆっくりで動く量もごくわずかなもので、そして、そのショットの主体に対して最初に合わせた焦点を最後まで外さない。だから、このカメラの動きに気づかない人もいるかもしれない。それほど微妙なものだ。これは従来の移動撮影と同様の効果を確かに得てはいるが、監督が意図したのは本質的に違う効果の側面を期待したのではないかと私は考えている。今回は是枝監督がなぜこのような特殊な撮影方法をとっているのか、私なりに考えてみようと思うのだ。



 

 

 

イニシエーション・ラブ

皆さん、結末どう思う?

 結末、あのタネ明かし部分ではなく、原作にはない鉢合わせ部分、これだけ賛否両論あるということはそれだけで大成功な作品なんでしょうね。私も楽しませてもらいました。

 原作は映像があまり思い浮かばないし、主人公の男の容姿なども直接的な表現はしていない。それも重要なトリックの一つ。小説という表現形式の特徴を存分に活かしたトリックだから、これを映画化するのは根本を考えなければなりません。表現形式の違いというのをあらためて考えさせられた作品ですね。

 そもそも、小説は言語という概念での表現であり、一般性の表現形式で、映画は、映像という個別性の表現である(詳しくは、三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」参照)といえます。この作品を例に簡単にいえば、原作での繭子はショートカットで細身の少女のようで、後は服装などの表現から、読者がそれぞれの想像の中でその姿を創り上げていくものです。ところが、映画では見てズバリ、前田敦子さん個人そのものです。ここには異論もあるでしょう。役者はその肉体を借りて、あくまで物語の登場人物を演じているといえます。それでも、やはりあっちゃんの繭子であって、それ以外ではないのです。だから、原作既読者にとって映画の鈴木夕樹くんを見た時、「え!こいつ?」と驚いた人も「そうか、キャラをよく読めばこうだよね!」と納得した人もいたでしょう。私は森田甘路さんをキャスティングしたことを結構大きく評価しています。もしかして痩せると本当に松田翔太さんに似ているのではないかという疑問も含めて。ということで、原作のトリックを表現形式の違いを乗り越えてここまで忠実に再現してみせた監督の手腕に拍手を送りたいものです。ただ、一点、あの結末を除いて。

 この作品は広い意味でミステリーと呼ばれているのだと思います。なぜなら、最初は物語に不思議や謎が存在することすらわからないのですから。原作では最後の2行でなんて言ってますが、正しくは最後の2ページくらいでしょうね、アレ?と思うのは。それも読者の認識が一度に劇的に覆されるのではなく、

あれ?

で、名前を確認し、

あれ、あれ?

で放送年月やら水着のカタチを確認し、

あれ、あれ、あれ?

で、いろんな事柄の時系列を確認するために再読し始めると、そんな人が多いと思います。私と同じように映画を観るために初めて文庫本を読んだ人なら、巻末のカセットテープのA面とB面についての解説を読み「ナルホド、そういうことか!」と気がついた方も多いでしょう。それくらい手の込んだミステリー小説でした。このような謎が解き明かされるタイプのミステリー小説の読後感は謎が解き明かされたスッキリ感とともにその謎の真相に伴う恐ろしさであるとか愛しさであるとか喜びや悲しみのような感情が伴うものです。そのような感情が深いほどトリックに偏らない上質の物語であると言えるでしょう。原作では謎は読者にだけバレて登場人物たちは知らぬが仏状態です。物語全体がミステリーのままで、

「女性って、怖いなぁ〜」

というのが読後感。女性の中には現実にこんな人もいるのかもしれない?という一般的な広く深い不気味さを感じます。ところが映画の結末では登場人物たちにも全てネタバレで、最後のあっちゃんの表情は困ったようにもトボけたようにも見えます。これではミステリーはあっちゃん演じる繭子個人に矮小化され、鑑賞後は

「このあと、あの人達はどうなったのだろう?」

という興味のほうが強くなってしまったのではないでしょうか。

 手元にあって、何回も読み返すことのできる本と違い、映画は再度観るためには新たに劇場に足を運びお金を払わなくてはなりません。そこまでする人は少ないでしょうから、原作を未読の鑑賞者でも、できれば1度の鑑賞でなるべく多くを理解してもらいたいというのが製作者の思いであり、そのためのあの結末であり、ラストのタネ明かしだったのでしょう。しかし、先程も言ったようにそのために原作よりは鑑賞後の余韻に欠ける物語となってしまったと個人的には少し残念に感じています。さて、みなさんはいかがでしょうか?

メイズランナー

違う興味が?

 想像していたほど、面白さは無かった。なんか、中身が薄い。でも物語としての面白さより、キャスティングが興味深かった。

 そもそも、映画は表現であるから、創った人間の思いが対象化されている。できた作品は作者の心が映画という形をとって現れたと言える。

 私たちは楽しみの対象として、作者の表現である映画を鑑賞するのだけれど、映画にはまた、商品としての側面もある。この作品は商品として創りが上手い。売れる商品をどう創るかということがよく考えられている。そういう心も作品に現れてくる。中でも一番わかり易いのがキャスティングだ。

 迷路の中と外という対立と迷路の中での保守派と改革派との対立という2つの対立を軸に物語は進むが、迷路の外は支配者で迷路の中は非支配者。迷路の中の保守派は主流派だが支配者に従属の関係を保とうとし、改革派は少数派だが、真実と主体性を求める。もちろんどちらの関係においても主人公は後者の立場を取るのだが、いにしえのハリウッド映画ではこの立場の主人公は白人の偉丈夫と相場は決まっていた。だいぶ前からその相場は崩れ始めていたのだけれど、本作では明確に違う。改革と主体性を求めて迷路からの脱出に成功するのは小さくひ弱な者達で有色人種も多い。

 ハリウッド映画は世界に向けての商品である。だから売れる商品のあり方が変わってきているということは世界のあり方が変わってきているということだ。かつて世界にとってヒーローの姿は白人だった。だが今はもう違うということだ。経済を中心とした実体的な世界の重心が欧米中心からアジアへと移りゆくに従い世界の人々の精神のあり方も変化してきていることが明確になってきたのだ。もう、映画を消費する大多数にとっては単純に白人の偉丈夫だからといって感情移入はできないのだろう。

 さて、多様性の時代だとよく言われるけれど、ハリウッド映画のキャスティングがこれからどのように変化してゆくか、非常に楽しみなのだ。

チャッピー

あんまり、かるく観てはいけません。

 オープニングとクライマックスのアクションシーンは対立する人間同士、ロボット同士の設定やデザインも含めて「ロボコップ」の完全なパクリ。ここまでパクリだと、何か意図があるのかと勘ぐってしまうが、作品の裏に通ったテーマも「ロボコップ」では人間の認識を移植された機械は人間か?という問いであり、本作ではA.Iで作られた精神は人間の精神と同じか?という疑問だから、ほとんど同じといえる。

 映画は科学ではないから余計なツッコミは必要ないのかもしれないけれど、人間の認識というものは生物体としての生きた人体の五感覚から創られ育てられるものだから、生きた人体から離れて存在することはできないはずだ。仮に機械に認識が芽生えることが可能となったとしても、自ずから人間のそれとは異質なものであると言える。機械の認識における体は人間の体と同様かそれ以上の五感覚器官が必要で、ならば機械でなくクローンか何かのほうが現実味がある。身も蓋もないが。

 この監督の表現意図はもちろんそんなところにはない。「第9地区」では南アフリカアパルトヘイトやそれによる人種間の格差の現実が下敷きとなっており、作品では被差別者は人間ではないエイリアンだ。彼はもちろん黒人がエイリアンだなどと言っているのではなく、被差別者が非人間として扱われている現実を作品に象徴的に投影しているのである。そして最後には主人公の体がエイリアンのそれに変質していってしまう。

 「エリジウム」では富裕層と貧困層の極端な格差を描いている。その格差を乗り越えるのは対立する科学技術の生み出した機械と融合した男だ。

 本作では人間に道具として使われることが目的で作られた人型機械に人間と同様に学習することで自己を確立していくA.I(人工知能)がインストールされてしまう。同様に人間の精神(字幕では意識となっている。論理学的には認識と捉えるべきだろう)が人型機械の体に転送される。これは人間の精神と同じものなのかという疑問が大きなテーマの一つとなっている。

 この監督は一貫して見かけは異質であっても人間としての本質は同じであることを主張しているのだろう。本質とはもちろん精神=こころである。全2作は本質である精神に変わりはないのではないかと主張していた。だが、本作は1歩進めて、精神に違いはあるのか?あるとすればその違いはなぜ生まれるのか?という疑問がテーマである。差別や格差は”違い”から生まれる。その違いとは何なのだろうか?

 本作では最後に本物の人間の精神が機械の体に転送されるということが同時に起こる。2つの機械の体があり、見かけは全く同じなのだが、その中身で人間の本質である精神は一方は人工的に創られたものであり、一方は本物の人間の精神を写したものだ。この人工的に作られた精神が、誰かの精神の合成やコピーではなく、赤ん坊のように白紙の状態で生まれ、環境に育てられたものであるところがミソだ。これは人間の精神の成り立ちと同じではないのか?ある個人の精神は遺伝によって成り立つよりも多くは環境によって創られたものであって、遺伝的な形質の違いによって本質的な違いが生まれるものではない、というのが監督の主張だろう。ここへ来て、冒頭のパクリ疑惑の謎が溶ける。これはパクリではなくオマージュというべきなのだろう。監督は「ロボコップ」に自分と同じ問題意識を見たに違いない。そして先達に大きな影響を受けたに違いない。クライマックスシーンの最後で成り立ちの違う2つの機械人間が並んでいるのは自作と先達とを並べてみせた象徴的なシーンだ。

 そしてラストシーン。道具として造られた機械の体ではなく、失われた愛する人の精神の正しく依代として機械の体が創られていく。ここをどのように捉えるかは、鑑賞者に委ねられているのだろう。

 ちょっと、勝手な深読みのしすぎ?いや、そもそも、映画は表現形式の一つだ。映画は作者の頭の中で創られた世界観が映画というカタチをとって現実世界に現れたものと言える。だから映画を鑑賞するということは作品世界を生み出した作者の精神世界を追体験することだ。これこそ映画鑑賞の醍醐味なのだ。

Zアイランド

どうしても好きになれない世界観

 品川ヒロシ監督はこのヤクザ者達の世界観と言うか、感覚を茶化して笑っているところもあるのだけれど、その感覚をよく解ってもいるようだ。もちろん映画作りも。良く解っているからこそ、茶化すこともできるし、笑い飛ばすこともできるのだろう。ところが、残念なことに私にはこの世界観が感覚的に到底、理解できないのである。

 自分にとってどうしても理解できないもう一つのジャンルがホラーやスプラッターものだ。その中でもゾンビものはワケが解らない。どうしても理解できないヤクザものとゾンビものの2つが合体した作品だから、コメディとして理解できるかと思ったら、やっぱりダメだった。

 いつも参考にしている前田有一さんの評価は70点。後半のアルアル系のネタで笑わせてくれるというが、どこがネタでどこが笑えるのかサッパリわからない。そして感動のクライマックスって、どこだ?

 もう少し嫌がらずに数を観て鍛えなければならないのかもしれないが、どうにも気持ちが悪い。まっ、そのうちなんとかなるだろう。(ならないかなぁ〜)