近況 「来年はやったるぞー!」
ゴジラ以降、ずっと休止状態。
現実の生活でもまるで冬ごもり。
しかし、こもってただ寝ていたのではなく、非常に充実しています。
理由があります。
実は面白い本に出会ったのですね。
「出会った」と言うのは正確ではありせん。
この本、2004年ころ、すでに手に入れていました。
しかし、一読して
「何言ってるのか、サッパリ解からん!」
というわけで、放ったらかしになっていました。
だから、個人的な再発見という方が正しい。
常々、映画についての体系的な理論書を探していました。
映画製作や撮影の技術解説書ではなく、作品論や作家論でもない、映画の本質についてのものです。
しかし、これが無いのです。
ある日、それこそ今年の夏あたり、またもやアマゾンの書籍リストをながめていて、
何気なく、カスタマーレビューを開いたんですね。
一度、買ってしまった本のレビューなど普通は見返さないんですが、
それも、2件しか無いものなんて。
でも、その2件が両方共、☆5つなんですね。
「ほ〜? そうだったっけ? 何で?」
曰く、
「キングオブ入門書」
「本格的映画理論の入門書」
しかし、自分の印象では入門書と言うには程遠い、訳の分からない本という印象。
で、本棚でホコリをかぶっていいたやつを引っ張りだして読み返し始めたのですね。
その本とは
J・オーモン,A・ベルガラ,M・マリー,M・ヴェルネ 著
武田潔 訳
「映画理論講義」(勁草書房)
さて、結論から言えば、映画草創期からの映画理論を網羅的に捉え、著者の観点からの分野分類による体系化を通して提示された、非常に価値の高い労作と言えるでしょう。
けれど、もし、まともな映画の理論書、入門書がこの本しか無いのだとしたら。
まず、映画とは何かという本質論がない。
ここは、この本の序論にその理由が書いてあって、映画という概念が覆う分野は一つの分野、側面からだけ捉えて、その本質とする事はできないほど、幅広いというのです。
が、そこをしっかりと解いてこそ、本質論といえるのであって、その本質論が無いがために、この本は用語の概念規定も曖昧で、人間の認識(観念)とそれを元にして創造された作品(実体)との区別までもが曖昧な、混沌とした内容となっているのです。
これでは、入門書と言うには程遠いものです。
そして、この本の混沌こそ、映画理論の歴史的迷走を端的に表したものでしょう。
もしかしたら、この迷走は映画論に限らず、芸術一般論、または更に大きく表現論にまで及ぶ現状を表しているのかもしれません。
と、カッコイイことを並べ立てるのは正直、後付の話で、最初は
「こりゃ~、ツッコミどころ満載じゃねーの?」
と、思ったわけです。
「映画のそもそもを考える」と言ったからには看過できませんよね。
で、このブログもホッタラカシの研究生活。
今はまだ、本の内容の論理的検証の段階ですが、来年夏までにはそれを終わらせ、
できれば、それを元に私なりの理論展開を始めたいと思っています。
つまり、本書に敬意を込めての
「映画理論講義批判 映画とは何か」(仮)
ということになります。
ま、来年の目標ですね。
そればっかりではこのブログの存在価値がなくなります。
たまには何か書いとかなくてはということで、
次の記事では今年の締めくくりをしたいと思います。
シン・ゴジラ
シンジへの解答
ゴジラシリーズでは第一作に継いでの傑作となった本作は監督のゴジラへのこだわりが強く感じられる作品だ。ゴジラの姿といい、圧倒的な恐怖といい、その物語のモチーフまで第一作を基本にして現代的にアレンジしたものだ。だが単なるアレンジではなく、今の時代を象徴する問題をしっかりと盛り込んでもいる。第一作ゴジラはその誕生した時代の日本人の思いを具現化することが一番の目的だったであろうから、本作は正統なリメイクとも呼べるものでもあるだろう。
その意味からいえばゴジラとは作品の主張を浮き立たせる媒介物であるともいえる。それは圧倒的な破壊と恐怖の象徴だ。第一作が生まれた当時の日本人にとって、その象徴の先にあるものは明確であったが、現代の殆どの日本人も同様の恐れがまた身近に迫っている予感を多かれ少なかれ持っているののではないかと思う。まさしく、ゴジラのように。
その時、日本人はどのように対応するのだろうか?その問いかけこそがこの作品のテーマだ。世界は日本の戦後の奇跡的な復興や多くの大地震のあとの被災者の落ち着いた強さに驚くが、その国民性は一体どこから来るのだろうか。ハリウッド映画に見られるヒーローという個人の活躍ではなく、宗教に根ざした自己犠牲と言うのとは少し違う感覚が日本人にはある。それは多分、圧倒的な苦境にあって自身をも客観視できる能力ではないかと思う。別な言い方をすれば、日本人は人間が個人としてしか生きられないのに、社会関係がなければ生きていくことが出来ないという矛盾した存在であることを経験的によくわかっているということだ。だから、どんなときも、自らが属する社会に最良の結果を得るために、各々が今、出来ることに最善を尽くす。それで自身がどうなるかということは二の次なのだ。そういう考え方が染み付いているということではないだろうか。この作品はそんな日本人のあり方をよく表している。
この矛盾は本能の海と森から認識の世界に歩み出た人類の宿命だ。そしてこれはあのTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が図らずも問いかけた矛盾でもある。
「シン・ゴジラ」はあのとき自己の存在理由に悩む中学2年生の個人的内省だけでは答えきれなかった問への庵野秀明監督の解答の一つでもあると思うのだ。
ズートピア
意外と”深い”のには理由がある
今回は映画「ズートピア」とともに書籍、三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」の紹介。
「ズートピア」の評判は総じて好意的です。抜群ではないものの、内容が意外と大人も楽しめるものだというのです。TVでのCMも「意外と深い」と締めくくっています。評論家の先生方さえ同様の意見ですね。
しかし、これは意外でもなんでもないんですね。1928年の「蒸気船ウィリー」の時代からのディズニーのお家芸と言っても良いものなのです。かえって、「ファインディング・ニモ」のほうがディズニーの動物キャラクターを使ったアニメーションとしては傍流と言っていいくらいです。さらに言えば、キャラクターが動物ではなく自動車であり、制作はピクサーで、配給だけがディズニーの「カーズ」はそれでも本流にちかいのです。何故でしょう?その秘密はすでに1965年に出版の三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」にしっかりと解き明かされています。
三浦さんは独学で弁証法をもとに芸術論・言語論・組織論などの未確立の分野の研究を進めたかたで、この「芸術とはどういうものか」も平易な文章ながら、他の追随を許さない論理性の高さで表現について学ぶ際には絶対に避けては通れない参考書の一冊となっているのは常識のはずなのです。ところが、そこについて言及されることがないのは専門家として恥ずべきことでしょう。そこで今回は私が代表して三浦さんの謎解きをご紹介しておきます。
まずは本書の引用から
芸術とはどういうものか(至誠堂選書13)
Ⅲ 新大陸の新しい芸術
ディズニー映画とその主人公
P.180から
童話では、動物たちが人間のことばを話している。そのさし絵では、動物たちが人間の服装で人間的な生活をいとなんでいる。これは童話を映画化したアニメーション映画の登場者たちにも見られることで、たとえば「狼なんぞこわくない」の主題歌がヒットした『子豚物語』での狼や三匹の子豚にしても、『兎と亀』での兎のマックや亀のトビイにしても、みな同じである。これらは動物の擬人化である。ところが、ミッキィやドナルドやグーフィやホレスやクラベルなどは、見たところ童話の世界の動物たちと同じでも、そこには鼠と家鴨と犬と馬と牛という動物関係が存在しない。狼が三匹の子豚をつかまえて食べようとつねにねらっているのとは、まったく異なった関係である。ミッキィ一族は動物に見えても実は動物ではなく、人間に動物的な外貌を与えたもの、人間の擬動物化である。ミッキィのつれているプルートが従者ではなく愛犬であるのに対して、グーフィはミッキィの仲間であり犬の外貌を持った人間である。
目からウロコと言うのはこのことです。私も始めてこの文に出会った時には開いた口が本当にしばらくふさがりませんでした。ディズニーの動物アニメーションが他と違い、深い機微に富んでいるのはアタリマエのことだったのです。なぜなら動物の姿を借りて解りやすく抽象化しているだけで描いているのは人間の社会そのものだったのですから。
本書は構成も絶妙で上記の項はアメリカにおける行動喜劇(スラップスティック・コメディ)の成立についての考察の次に来ています。実に解りやすい。映画ばかりではなく、表現一般について知りたいと思う方にはぜひとも一読をお勧めします。
で、映画「ズートピア」ですが、このディズニーアニメーションの伝統をしっかりと受け継いでいるばかりでなく、さらに発展もしています。上記の引用の中で他のアニメーションとの比較ではミッキィとその仲間たちには動物関係がないと書いてあります。ところが、「ズートピア」では動物関係が物語の中に取り込まれています。登場人物たちがまとった動物のキャラクターの種や系統の関係性を人間社会の人種や格差の関係の抽象化として取り込んでしまっているのです。見事と言っていいでしょう。だから、観ごたえがありのです。これらのことを踏まえたうえでディズニーアニメを見てみると、また違った世界が見えてくるでしょう。
殿、利息でござる!
意義ある再現ドラマ
ぜひ、多くの人に観て欲しい。このようなことが実際にあったということは驚きであるし、これを涙と笑いで再現してくれる監督の腕前には感謝しよう。原作「無私の日本人」は未読であったから、早速注文したほどだ。
日本人は明治維新を見ても、本当に頭が良い人が多いと思う。他の国であればほとんどが反乱とか革命という流れになるのだろう。もちろん、明治維新においてもそれが主流の考え方であるし、だからこそ坂本龍馬の姿が鮮明に浮かび上がるのだが、市井の人々の中にもこのような視点を持った者がいたということ、それが宗教観の薄いものであることも世界的に見て特異な事ではないだろうか。あらためて日本人や無私ということを考える上で、非常に興味深い話であるし、書物ばかりではなく、これを映画化するということも今の日本人にとって意味の大きいことであると思う。
キャスティングを見ればこの作品の意図がよく分かる。それぞれの役者の既存イメージそのままの配役であり、映画的な挑戦や驚きはない。だが、この手堅さこそが狙いであり、定番のお涙頂戴も行き過ぎなければ許されるだろう。つまりこの作品は監督や役者たちの表現というよりも史実を解りやすく見せるための再現ドラマなのだ。この作品では誰も突出していない。原作「無私の日本人」にふさわしいものとなっている。
あやしい彼女 2/2
日本版の中に出てくる曲で、前回お話したような俳句と似た表現が顕著なのは次の3曲だ。
1963年(昭和38年)発売 坂本九
原曲は1960年に初演された同名ミュージカルの劇中主題歌。日本レコード大賞作曲賞受賞。
作詞:永六輔
作曲:いずみたく
「真っ赤な太陽」
1967年(昭和42年)発売 美空ひばり ジャッキー吉川とブルーコメッツ
作詞:吉岡治
作曲:原信夫
「悲しくてやりきれない」
1968年(昭和43年)発売 ザ・フォーク・クルセダーズ
作詞:サトウハチロー
作曲:加藤和彦
この3曲の歌詞について具体的に考えてみよう。ただし、著作権に触れるといけないので引用は歌い出しの部分だけとするが、それでもその特徴がよく解るはずだ。どれも覚えやすいメロディに誰にでもわかる行動や情景が歌われる。抽象的な概念ではなく、もう少し具体的で誰でもが経験しているような行動や情景だ。
「見上げてごらん夜の星を」ではこのタイトルそのままの歌詞で始まる。
見上げてごらん 夜の星を
小さな星の 小さな光りが
ささやかな幸せを うたってる
理由は人によって全て違っても、誰でもそれぞれの思いで夜空の星を見上げたことがあるだろう。だから、「見上げてごらん・・・」と促されれば、その時の思いが湧き上がってくるはずだ。こんなに唐突でありながフレーズ、こんなにも強い歌い出しが他にあるだろうか?思いを込めて夜空の星を見上げたことのある人は誰でもこのhだけで心を一瞬にして掴まれてしまう。このタイトルそのままのフレーズがこの曲の命だ。
「悲しくてやりきれない」というタイトルはサビの部分で使われる。このフレーズは直接に感情を歌ったものだ。けれど、この誰でもが経験する感情を誰でもが経験するだろう情景から導き出す。
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この最初のフレーズも前曲と同様だ。胸に迫る思いに誰でもがする経験を歌うことで、聞く者の心を掴んでしまう。この情景と次のフレーズの「悲しくて・・・」は「涙をながす」という人の行動でつながっている。この有様が次の心情表現へと淀みなくつなげている。この時、聞いている者はその心のなかに幾度も遠くの空にそれぞれの思いを馳せる自分の姿を客観的な映像として見ているだろう。それもそれぞれが経験した感覚、感情を伴った具体的な状況だ。涙をながす理由は説明されない。それは聞くものそれぞの心に任されている。たいていは皆それぞれにそんな心情に至る経験を持っているからだ。
「真っ赤な太陽」は傑作だと思う。
真っ赤に燃えた太陽だから
真夏の海は恋の季節なの
この「だから」で結ばれた2つのフレーズを良く読んで欲しい。「真っ赤に燃えた太陽」だから「真夏の海は恋の季節」と言うのは考えてみると理屈としてはつながらない。「だから」という言葉はその前文を理由としてその後の文において話の発展や結びを行うものだ。言い方を変えれば「だから」の前後は原因と結果だと言っても良いだろう。しかし、この文ではそのような筋道にはなっていない。どう考えても、「風が吹くと桶屋が儲かる・・・」的な話だ。もはやまともな文章にすらなっていないのだ。けれど、どうだろう、感覚、感情的にはピッタリとハマる。この2つのフレーズだけで聞く者は焼けつく日差しや砂と海水の感触、潮と汗の匂いとともにジリジリとした恋を求める男女の感情さえ湧き上がってくる。
作品の変化 鑑賞者の変化
以上の3曲を並べてみると共通するのは最初に言ったように抽象化され過ぎない現実の情景や行動が歌われていることなのだが、これは今も変わりないのだろうか?
これを確かめるために、昨年、2015年日本レコード大賞の大賞と作品賞に選ばれた曲を参考にしてみよう。この賞は色々と言われるところもあるけれど、とりあえず昨年ヒットした曲、つまり一般的に支持された曲であることは確かだからだ。ここですべての曲の歌詞を抜粋、引用することはしないが、興味のある方はそれぞれを検索、確認してみて欲しい。上記の点について面白いことに気がつくはずだ。
私が書いたような現実の情景や行動による感情の伴った像の誘導に近い表現方法を用いていると言えるのは僅かに大賞をとった三代目 J Soul Brothers の「Unfair World」だけである。逆に他の曲は全て全く違った特徴を持っている。その特徴とは「現実の手触りが少ない」ことである。現実の情景や行動に基づく表現が少なく、ほとんどが頭のなかだけで考えられた、観念的な世界なのだ。かつての曲たちが他人や世界との関係を歌っていたのに対し、今の曲たちは自分の世界だけを歌っているように聞こえる。しかし、このような曲たちが現実に支持されている。これは鑑賞者が変化したのだろうか?作品が変化したのだろうか?
悲しい勘違い
このように書くと、「今の若いものは・・・」のような感情的な年寄りのたわごとのように聞こえると思う。しかし、そうではなく、今の状態を良いとか悪いとか言うのでもなく、冷静に私なりの解釈をしているだけだ。すると、実は現実の手触りに欠ける歌詞が受け入れられるような現在の状況が生み出された大元はこの作品「日本版 あやしい彼女」の中に出てくる代表的な3曲が生まれた時代の直後から現れ始めたと言って良いと私は考えている。単純なことだ。1970年台に始まるフォークシンガーに代表される、シンガー・ソング・ライターのブームがそれだ。それまでの曲はプロの作曲家とプロの作詞家が作っていた。彼らはプロの経験と技術で作品を作っている。年齢もそれなりだ。しかし、台頭したシンガー・ソング・ライターたちはみな若い。それまでにない自由な発想で作品を創った。それが若者の共感を得た。なぜなら、創る側も受け取る側も、ともに若く自由でそして現実の経験は少なかったのだ。
歌謡曲も映画と同様に表現形式の一つであり、表現という側面と商品という側面を同時に持っている。社会的経験の少ない若者たちにも共感される同世代の表現が商品としても認められ、より多く供給されるのは当然だ。経験に欠けることが悪いのではない。経験に欠けるからこその迷いや希望もあり、そこに多くの共感が得られたという事実があるのだと思う。
勘違いの源はここにあると思う。つまり、この作品の肝である、昭和歌謡の歌詞の素晴らしさが今の若い世代の真の共感を得られるとは限らないいうことだ。今の若者も当時の若者も条件は同じだろう。だから、名曲は時代を超えて共感を得るものだと考えるなら、それは間違いであるかも知れない。名曲は時代を超えるかもしれないが、同時代の世代を跨いで共感を得られるとは限らないということだ。私の予想では、この映画を観て共感できるのは現在50代以上の世代がほとんどかもしれないということである。若者の共感を全く受けないとは言わない、しかし、その共感とはなんだろう。歌詞の内容への共感やノスタルジーではなく、レトロ感なのではないのだろうか。
この映画を創った人たちは広い世代をターゲットにしたかもしれないが、題材に昭和の名曲を選んだがゆえに、その部分ではオリジナルを超える内容の質の高さを得た反面、そこに共感してくれる多くは高齢者であるという矛盾に見舞われるのではないかと私は考えている。これが私の杞憂なら、現代の若者はかつての私達よりずっと豊かな感受性を持っている言えるのだが。それでも、この作品自体は良く出来ている。なんだかレトロな昭和歌謡に新鮮さを感じただけの若者も、彼ら自身がオヤジ、オバサンになってこの作品をふたたび観る機会があるのなら、きっと涙を流す者も出てくるだろう。
参考文献
海保静子著 「育児の認識学」
三浦つとむ著 「芸術とはどういうものか」
「弁証法はどういう科学か」
あやしい彼女 1/2
あやしい勘違い
楽しめるし、悪くない。倍賞美津子さんと多部未華子さんのつながりに難があるけれど、それでも白目をむいて茹で上がって見せる多部未華子さんはそれを乗り越える魅力がある。しかし、元は大ヒットした韓国映画のリメイクだから、オリジナルより高い評価を受けることは少ないだろうと思う。私個人としてはこっちのほうが好きだ。なぜかといえば日本のほうが脚本の構造をうまく利用できる素材に恵まれているという特殊性があるからだ。物語の表現内容はオリジナルと日本版とでは微妙に違っている。どのように違うかはどちらも良い作品なので是非、観比べてみることをオススメしたい。ただ、本作は製作者の意図したほどの観客動員は得ることは出来ないかもしれない。製作者も鑑賞者も地域や世代の違いによる、普遍性と特殊性の切り分けが難しいために勘違いをしているのではないかと思われるからだ。今回は、この作品における日本的普遍性が世界的に見ると特殊なものではないかという疑問と、この特殊なあり方が日本においても世代を経るに従って普遍的ではなくなって来ている、つまり共感を得られなくなってきているのではないか?ということについて考えてみたい。
難しいリメイク
映画表現におけるリメイクすることの目的とは何だろう。それは商品価値の向上ということだと思う。リメイクとはオリジナル作品の高い商品価値や作品性を認めながら、時代や地域の違いによる鑑賞者の受け取り方の違いにあわせた修正を施し、より商品価値(集客力)を高めた作品を再製作することと考えられる。本作はオリジナルの製作からほとんど時を経ておらず、時代的認識の差や技術的発展の穴埋めというリメイクではなく、公開される地域の文化的背景の差を埋めるためのものだ。つまり韓国から日本へ舞台を移し文化的な違和感をなくすための修正を施して日本の観客に受け入れられやすい商品として再製作したものといえるだろう。
それは本作では非常に上手くいっている。この物語は口の悪い婆さんが突然20歳に若返り、歌が上手かったことを活かして歌手デビューを果たそうというものだけれど、主人公はただ口が悪いだけではなく、他人を思いやる気持ちからであるということが日本版のほうが良く表現されているし、どうして口が悪くなってしまったのかという背景についても、日本版のほうが共感が持てる。これはリメイクのほうが後だしジャンケン的に有利だというだけにとどまらず、韓国と日本との文化的背景の違いを作者が良く理解しているからだろう。
主人公の年齢がだいたい70代だとすると、彼女の20代といえば1950年代後半から1960年代半ばまでということになる。その頃の韓国はといえば、1956年にアメリカの傀儡であった李承晩が大統領に3選している。この政権は1960年に倒れるけれども、その後も軍事政権が続き、形だけではあるが民主的選挙で朴正煕が大統領に選ばれるのが1971年ということになる。そのような軍事政権下の韓国の一般市民の現実的な生活や歌手や楽曲の実際などは日本人にとって肌感覚としては解らない。
当時の日本はといえば、1956年に経済企画庁は経済白書で「もはや戦後ではない」と記したが、一般市民の生活はまだまだ戦後を抜けきってはおらず、このあたりから高度経済成長という日本の誰もが死にものぐるいで生活の向上を求める時代がやってくる。高度経済成長という言葉の響きから、それが華やかで明るい時代であったと現代の感覚から想像するのは間違っている。それは希望に満ちた時代であったことは確かだが、現実にその時代を生きた人々にとっては苦しい日々であったに違いない。ただ、希望が持てたからこそ、その時代を乗り越え次の時代を作ることが出来たのだ。それはどの個人にも等しく訪れる青春時代と同様で、思い起こせば甘く懐かしいが現実に青春を生きているときはそれが甘い青春などとは自覚できはしない、苦い思いばかりの日々であるのと同じである。日本人としてはこちらのほうが実感として解りやすい。ただし、そう、但し書きがつくのだが、ちょうど私が1956年生まれなのだけれど、戦後の余韻を受けて育った我々の世代まではという但し書きがつくのではないかと思うのだ。
すばらしい昭和歌謡の歌詞
歌は魂で歌うものだというセリフが出てくる。このことの理解も、歌い手が歌詞の理解をどのように歌うかの考え方の微妙な違いがオリジナルと日本版リメイクで良く現れている。ただ、元の脚本が主人公がボーカルを勤めるバンドがデビューできるかどうかの選考にオリジナル曲が必要ということになっているので、日本版では上記の考え方による歌唱の表現のあり方に一貫性がなくなってしまった。しかし、ハッピーエンドのコメディ、つまり御伽噺としては、そこまでうるさく言う必要はないだろう。
そして、この日本版を素晴らしい作品にしている第一の要素が選曲にある。これらの曲とその歌詞の素晴らしさが日本の社会の歴史的な背景とその中で青春を過ごした主人公の心を見事に代弁し、また、鑑賞者の共感と感動とを強く揺さぶるものとなっている。冒頭に記した日本の特殊性とはこの事だ。ここからは私の専門外に対する私個人の意見として聞いて欲しい。
プレバトという番組は評判だから、みなさんもご存知のことと思う。この番組で人気のある、俳句の毒舌先生の解説は俳句の作り方が素人にも理屈としてはよく解る。この先生の話をまとめてみると、俳句は簡潔でより適切な言葉(概念)を提示することで、鑑賞者の心に具体的な情景を描かせることができるかにかかっているということだろう。更に、良い俳句はこの情景が単に視覚的映像というだけでなく、他のすべての感覚を含めた五感覚に訴えるもので、そのような情景を描かせることで五感覚に付随する感情をも思い描かせるものであるということだろう。吹き抜ける風の感触や花の香から様々な感情が呼び起こされるようにである。このような言葉の表現方法は他の言語でも当然存在するのだろうけれど、少なくとも日本語において重要で特徴的な使い方であることは確かだ。この考え方は、日本の歌謡における作詞にも生きている。そして、特に昭和前期の歌謡曲の歌詞においてはそのような本質的に俳句に似た表現が今よりずっと多かったのではないかと思うのだ。
次回は日本版に出てくるこのような特徴の顕著な3曲を具体的に考えてみようと思う。
オデッセイ 追記
誤訳?
主人公は自分の行動をビデオにメッセージとして記録しているのだが、物語はビデオに残す彼の音声メッセージがその場面の説明にもなるというように工夫されている。彼は一人取り残された火星で生き残るために食料として保存してあったじゃがいもを種芋として栽培するエピソードが出てくる。鑑賞者はこの試みも彼の解説付きの記録状況をリアルタイムで観ることになるのだけれど、その中で「火星の土で栽培する・・・」というセリフが出てくる。火星の表面を覆っているのは土なのか?と一瞬現実に引き戻されたのは私一人だけではないだろう。最近のNASAの火星探査の発表では火星に水が存在する可能性が非常に高まったと言っている。過去にはもしかしたら生命体が存在したかもしれないという話まで出てきているらしいが、だからといって”土”はないだろう。少なくとも地球で言うところの”土”の概念は生物の死骸の堆積だ。いくらなんでもそれはない。いま火星の表面を覆っているのは殆どが岩石と砂だろう。私は日本語吹き替え版を観たのだから単なる誤訳かも知れない。もともとのセリフはどうなっているのだろうか。まあ、ほんの些細な事だし、素晴らしい映画の出来には影響ないのだけれど、ちょっと、気になる。