映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

スターウォーズ フォースの覚醒

半分残念 

 さて、この「フォースの覚醒」については、特にエピソードⅣからのファンは複雑な気持ちだと思う。なぜなら、映像面での出来は上出来といえるものだけれど、内容についてはもっとやりようがあったのではないか?と、疑問を持たざるをえないからだ。理由については、以下を参照していただきたい。 

 

前田有一の超映画批評」 

http://movie.maeda-y.com/movie/02044.htm 

 

 前田有一さんは今、最も解りやすく、率直な映画批評を書いている批評家の一人だと思う。私もほぼ、同じ感想を持った。やはり、スターウォーズシリーズには過去作を上回る驚きとワクワク、ドキドキを期待してしまうのだ。 

 ただ残念ばかりではない。前田さんの言うように、前半は盛り上がる。昨日までにTVで過去の作品を第1シリーズ、エピソードⅣからⅥまでを見返した方も多いと思う。それで、まず感じるのは特殊効果の違いだ。第1シリーズの特殊効果はCGはほとんど使われていないだろう。セットによる実写とフィギュアによるアニメーションとの合成がメインで、いわゆるSFXというやつだ。この方が現実の手触りのようなものがあるがその動きはやはりぎこちない。第2シリーズ、エピソードⅠからⅢまではCGによる特殊効果が主で、こちらはVFXというやつ。この3作では登場人物よりそちらが主役と言ってよいほどだ。表現は格段に緻密で滑らかになったが、なんだか現実離れしていて、以前の手触り感のようなものは失われてしまっている。この流れの中で今回の「フォースの覚醒」を観ればセットと特殊メイクと実際に作られたBB8などの実写部分とCGとが非常にバランスよく融け合って3D撮影の効果もあって、奥行きも広がりも手触り感さえある、好感のもてる映像となっている。特に前半、墜落した戦艦の中で部品を集めるレイ、遠景に墜落した戦艦、手前にレイと言う構図がいくつか出てきたが、3Dの劇場スクリーンに最も適した素晴らしいものとなっている。 

参考:今さらですがVFXとはなんだ論  

http://area.autodesk.jp/column/trend_tech/vfx/whats_vfx_1/ 

 これだけ表現技術が進歩しているのに、内容がエピソードⅣの焼き直しでは、やはり昔からのファンとしては納得がいかないのだ。でも、レイもBB8もキャラクターとしては成功だと思う。だから、次回作では、映像も内容も、冒険して欲しい。 

亜人 第1部 ー衝動ー

面白い主人公の性格設定 

 通常は未熟で感情的な者が経験を積むことによって冷静かつ論理的に成長する話が描かれることが多い。しかし、この物語は逆に他人に共感できないもの=社会性に欠ける若者の成長の物語だ。この方が今の若者の共感を得るのだとしたら、社会をよく反映した物語だといえる。ただし、論理的であることと冷静でいられることとは同義ではない。彼が窮地に陥った時にも冷静に論理的に考えられるのはやはり物語だといえるが、そこは大目に見ても良いほどに話は面白い。 

 

対象を絞った潔さ 

 「Pan」、「リトルプリンス」のときに対象を絞りきれていないと書いたが、日本のアニメーションの場合は漫画を原作としている場合が多いため、その制約が端からない。漫画は対象読者が非常に細分化されている。そのため、その対象にあったコアな題材を設定することができる。漫画ファンは厳しいから、アニメ化に求める原作に対する忠実度は高い傾向にある。この2つの要因から、日本の漫画を原作としたアニメは漫画のやりたかったことをアニメで効果的に表現することに重点を置くようになったのではないか。原作は未読だが、このアニメ作品の独特の持ち味は原作の良さをアニメ化によって失うことのないよう十分に配慮されたものに違いない。そして、この対象を絞った潔い作りは、私のような新参者のオヤジでも十分に楽しめるものだった。主人公がどのような成長を果たすのか、つまりは作者が今の若者をどのように捉えているのか、TVシリーズも含めて楽しみなのである。 

リトルプリンス 星の王子さまと私

子供大人のファンタジー 

 先日、実写ファンタジー「Pan」とアニメーション作品「リトルプリンス 星の王子さまと私」という2つの作品を続けて観た。子供を対象とした作品におけるデフォルメということに興味があって、2つの作品を比較してみたかったからだ。しかし、2つを観たあと私が思ったのは「果たしてこれは子供向けなのか?」という疑問だった。狙いとしては児童、生徒からその親の世代くらいまでを想定しているのだろうが、子供に対しては難しすぎ、大人に対しては子供っぽく、中途半端なのだ。多分、喜んで観るのは中学生から20代くらいまでの大人になりきれていない人達だけで、かえって顧客の幅を狭めているのと同時に作品の内容を散漫にしているのではないかと思えるのだ。実際に、観客に子供は少ない。このことは日本のアニメの作り方とは概ね反対に位置すると思う。日本のアニメは最初から狙いを絞ることでやりたいことが出来ているようだ。例外はジブリ作品だがジブリについては今回の2作品と同様の比較的幅の広い対象を想定しているものの、商品としての映画というより、作品としてやりたいことをやる側面が強く出ている。見かけは幅の広い鑑賞者層を対象にしているが、実は作品によってそれぞれ狙いを絞っているだろう。「となりのトトロ」と「紅の豚」と「風立ちぬ」では製作年代が違うとはいえ、同じ鑑賞者層を対象にして作られているとは思えないし、逆にそこが受けているように思える。 

 ここで、対象が子供から大人という中の子どもと言っても就学前の児童から高校生くらいまでをひとくくりに子供としてしまうのには無理がある。このような作品の場合、大抵は下はせいぜい小学校の高学年までだろう。小学校低学年以下の児童が理解するには難しすぎる作品が多い。つまりジブリ作品はこの典型で、ジブリ作品を映画作品としてまともに鑑賞できるのは一般的に中学生以上と言っていいいだろう。ジブリ作品は自らの作画に合わせたオリジナル脚本であり、全てが彼らの(宮﨑駿の)スタイルで統一できるから、対象年齢の幅を多少広くみせかけても、狙いは絞られているという芸当もできるのだろう。他の日本のアニメは漫画が原作というものが多い。漫画は対象の幅は年齢ばかりではなく、読者の好みによっても狙いが細分化されているから、その細かな対象に合わせた、より極端な創作が可能となり、アニメ化される際にもその本質をなるべく失わないよう作られている場合が多い。このように日本のアニメ作品は狙いを絞ることで作品の内容を狙いに合わせた質の高いものに出来ているといえる。ところが、今回鑑賞した2つの映画作品についてはそこが曖昧なのだ。 

 「Pan」と「リトルプリンス」はそもそも原作がクセモノだ。両方とも、物語の語り口自体が大人のためのデフォルメがなされている。 

 デフォルメとは本来変形という意味らしいが創作においては主に対象の特徴を強調したり誇張するために行う変形を指す言葉として使われているだろう。子供、特に児童に対する作品におけるデフォルメは、まだ複雑な具体を理解できない彼らのその理解を容易にするためのものだろう。これは昔話が良い例である。桃太郎が川を流れてきた桃から生まれてくるのは、その物語の発生を考えれば様々な解釈ができるだろうが、物語を聞かされる子供にとっては桃太郎がおじいさんとおばあさんの子供になったこと、桃から生まれたので桃太郎と名づけられたことがすんなりと理解できればよいのである。今は昔話を絵本で読むことがほとんどだが、本来は話し聞かせたものだ。聞かされる子供は挿絵の世界も文字による印象も無いところから聞かされたお話の世界を自分で想像しなければならない。その創像が容易になるような工夫がなされているのだ。これでわかるように創作におけるデフォルメとは変形の対象の特徴を強調するための誇張であったり、抽象化であるとも言える。それは視覚像ばかりではなく物語自体(ストーリー)にも適用される。犬、猿、キジが従者になるくだりが繰り返されるのは人のつながりの基本的なあり方を最も単純化し、それを繰り返すことで印象づけるものだろう。近年注目された、成敗された鬼の側にも言い分があるという発想の転換はもっともだが、それは桃太郎を聞いて育った子供が中学生くらいになってから自分で気づくのならそれは素晴らしいことだ。しかし、就学前なら悪いことは悪いとわかればよいのである。しかし、「Pan」と「リトルプリンス」の原作は児童向けの作品とは言いがたい。特に「星の王子様」については体裁は子供向けだが、内容は大人向けである。大人が子供に戻って考える話だ。 

 今回の映画作品に戻ろう。「Pan」はストーリー自体は全体として児童にもわかりやすいものだ。しかし、セリフ回しは難しい。特に、海賊黒ひげの主張は難解だ。しかし、この男の考え方の悪さが簡単明瞭に伝わらなければそれこそお話にならない。ここは映像でカバーしているのだろう。黒ひげは人相も行いもひと目で”悪者”だ。しかし、それを取り巻く世界の描き方が複雑すぎる。複雑すぎて解らないということもあるのだ。 

 私は小学生の頃(だったと思う)、まだ白黒放送のTVでジュディ・カーランド主演の「オズの魔法使い」を見たことがある。当時の小学生にとって、それがモノクロであったこともあって、夢の国の冒険と言うより、不気味な怪物の国に見え物語の筋より、怖かったという印象だけが記憶に残ったものだ。「Pan」も同様だ。というよりも、ほとんど児童の鑑賞には映像の体験性だけで対応していると言って良い。児童の鑑賞に対し最初から内容の詳しい理解を求めてはいないのだ。そして「リトルプリンス」だが、これは児童にも解りやすいデフォルメの効いた作画だ。けれど児童に理解を求めるという目的性は低い。大人子供が失いそうになる子供心に郷愁をはせるその手助けを主な目的としたものだろう。 

「大切なものは目に見えない」ということをすんなりとわかる児童はまれだろう。 

子供でも、この物語の中の登場人物たちの相手に対する共感が大切であることはなんとなく理解できるだろう。しかしそれを論理として現実の生活に適用することは困難なはずだ。 

 物質のように見たり触ったりは出来ないが、確かに存在するといえば、精神の世界に他ならない。物質世界が精神の世界を担い、精神の世界が物質世界を変化、進歩させる。その関係をしっかりと理解したうえで、先の言葉を真に理解できるのは子供ではなく大人であるはずだ。この2つの作品の原作は実は思春期あたりの子供を大人へと成長させるための作品なのではないだろうか。映画は原作とは違った狙いを持って制作されることを否定するものではないが、2つの映画作品はその原作の意味をあまり考慮することなく、単なるファンタジーに仕上げたために狙いの曖昧な作品となってしまったのではないのだろうか。 

エール!

障害者に対する気付き 

 主人公のポーラは酪農家の両親と弟の4人家族で、毎日家業を手伝いながら学校に通っている思春期の女の子。彼女の家族は彼女をのぞいて全員耳が聞こえない。現実には大変な話だと思うけれど、ちっとも暗くない、とても明るい希望に溢れたコメディ仕立ての物語だ。 

 家族の中で一人だけ耳が聞こえるポーラは耳の聞こえない家族にとって、健常者の社会との橋渡し役としてかけがえのない存在だ。ところが彼女はコーラスの授業を担当している教師に歌う才能を見出される。ものすごく皮肉な話だ。と、言うと聾唖者を弄くった低劣な話かというとそうではない。これまでの障害者を描いた作品ではなかった、新しい視点に気づかせてくれる。 

 ある日父親は突然、村長に立候補するという。それは無理だという娘に 

オバマは大統領になった。肌の色は障害にはならなかった。」 

「耳が聴こえないのは個性だ」 

と、力説する。ここで鑑賞者は深く考えずに思わずニヤリとするだろう。ところが、ポーラが歌を学びにパリに行きたいと言い出すと母親は 

「あなたが生まれて耳が聞こえると知った時、私はどれだけ泣いたことか」 

「私の育て方が間違っていた。家族を何よりも大切にと育てたはずなのに。」 

「この子は聾唖者の心を持っていると信じていた。」 

と言って猛反対する。 

鑑賞者はこのセリフを聞いた時、心に何か引っかかるのを感じるはずだ。そして父親の言葉も違った色合いを帯びてくることに気付くのだ。これらのセリフは単に強い家族の結びつきを表現したかったものだろうか。母親の涙の意味は何だったのだろうか? 

 私たちはよく障害者を同じ人間だと言う。もちろん、基本的には全く同じ人間同士だ。だが、もちろん違いもある。聾唖者であれば耳が聞えないということだが、この一点で社会的にはとてつもなく大きなハンデを背負うこととなる。ここの矛盾について描いた作品は多い。だが、この作品はもう一つの違いについて気づかせてくれる。それは耳が聞こえないということで作られる心の問題だ。聾唖者には聾唖者の障害者には障害者それぞれの障害に見合った心の世界があるということだ。それは喜びや悲しみのような感情レベルのものと同時に、聾唖者であれば音のない世界で育ってきた世界観そのものも健常者とは微妙に違うのだということだろう。聾唖者の方々がこの作品を見て、これらのセリフに接した時にいったいどう思うのだろうか。またこの違いをしっかりと認めたうえでなければ、障害者を理解することは難しいのかもしれない。この作品は笑って泣けるだけではなく、その大事な視点に気づかせてくれる。では、健常者と障害者が理解しあうことは難しいことなのだろうか? 

 その答えについて、私はこの物語の幸せな結末を信じるほかないのだ。 

ナイトクローラー

現代アメリカ社会映す異常な男 

 評判の作品だったのに観る機会を逃し、ようやくの鑑賞。だから、Yahoo!のユーザーレビューなども何度か読んでいた。そこではこの作品は「サイコパスの話」という見方が多い。公式サイトでは作品紹介のタイトルが 

 

「視聴率至上主義のテレビ業界を舞台に 

アカデミー賞ノミネートの常軌を逸した 

大胆かつ緻密な脚本が、<日常の隣で笑う狂気に迫る>ー」 

 

と、なっている。この作品はこのルイスという男の狂気がテーマなのだろうか? 

 テレビ業界の裏側を描いた話は他にもある。裏では限りなく黒に近いグレーなことが行われていそうなことは、私達素人にもヤラセなどの報道で想像はつく。ただし、実際の有様についてはこの作品がみせてくれるまで具体的には解らないから、それはそれで意味のあることだし、面白みもある。しかし、現実の報道の現場にいる人々がみんなヤラセに走ったり”サイコパス”であるはずはない。土台、サイコパスというものがどういうものか、私にはハッキリとはわからないし、鑑賞者の殆どは私と同じだろう。だから、この作品は一人の特殊な人間の物語なのかというと、それでは作品の狙いが萎縮してしまうし、なぜ報道の現場という舞台を選んだかという意図がアヤフヤになってしまう。作者の狙いは少し違うところにあるのではないかと思うのだ。 

 この物語は一人の異常で特殊な男の成功の物語だ。そういう物語であること自体が特殊であり、異常であるのだが、これが物語として成り立つ社会そのものが異常なのではないかという問いこそが、作者の狙いだろう。作者はこの男を現代アメリカ社会の映し鏡として描いているのだ。 

 冒頭のシーンで主人公は盗みを働いている。それを咎めた警備員はどうなったのだろうか。想像をすると恐ろしいのだが映画はそれを些細なことと言いたげにその後一切触れようとしない。恐ろしさを掻き立てる思い切った構成だ。彼は盗品を売りさばくために持ち込んだ会社に事もあろうにその場で自分自身を売り込む。自分を雇えばどれほどよく働くか弁舌巧みに売り込むのだ。もちろん「盗人は雇わない」の一言でその話はなくなるのだが、ここまでの流れで鑑賞者はこの男がどんな人間なのかを思い知る。異常なほどの自己中心的人間なのだ。 

 この後、この男はその性格を存分に発揮して成り上がっていくのだが、彼を使う女性ディレクターも彼の助手も正常な人間でありながら、彼の側に引きずり込まれてゆく。そこにはもちろん視聴率至上主義という業界体質があるだろうし、個人それぞれを取り巻く状況もあるだろう。しかし、視聴率至上主義が本当に悪いのだろうか?それぞれを取り巻く状況を産んだのは何なのだろうか?この報道番組の視聴率というものが求めるものと現在の個人の状況の両方を創りだした原因とはアメリカ社会の行き過ぎた個人主義ではないのか?この異常な男は現代アメリカ社会の映し鏡であり、異常なのはこの男を必要とする社会のほうなのではないだろうか?

 物語の結末はその問に帰結するだろう。 

ガールズステップ

隠れた宝物 

 青春モノの定番といえば、昔はスポーツが軸となることが多かったが、今やダンス。年配者にとっては多少違和感があるものの、見れば納得。同じことだ。またメニューも同じ、友情と恋。昔とちょっと違うのはスクールカースト。それ何?この感覚だけはついていけない。 

 目標を共有することで仲間、友情というものを知り、恋に目覚める。この辺は昔と変わらない。水戸黄門の基本的には毎回同じ話というのと同様、昔からあった青春モノと同じく涙と友情でハッピーエンド。解っていても結構ウルウル来てしまうから、定食としては良い出来だろう。だけど、それだけ。一時キラキラの青春に幸せな気持ちになって、それで終わりなのだ。なぜなら、観ている方は「こんなことはあり得ない」と解っているからだ。彼女たちが偶然素晴らしい指導者に巡りあうことも、あんなに劇的に友情を結ぶことも、軽々とカーストの壁を乗り越えることも、あの程度のダンスで賞をもらえることも全て現実ではあり得ない夢物語と解っているからだ。しかし、それだけでしかないから悪いことだ、とは言わない。むしろ、そんなあり得ない夢を見せてくれるのが映画の得意技なのだ。 その一時の幸せな気持ちが、明日を生きる少しの後押しになるならそれは価値あることだと思うのだ。

 前回、現実にはあり得ないモノやコトを現実のように見せてくれるのが映画だと言った。それはSFやファンタジーでなくとも同様なのだ。同様に現実にあるけれど自分では体験したくない、または出来無いことも映画では疑似体験させてくれる。オリンピックで金メダルを獲ってみたいと思っても普通はできることではない。なにせ各大会のそれぞれの種目で金メダルを取れるのは世界でたった一人だけだからだ。「死ぬとはどういうことだろう?」とは誰しも思うことだが、普通は実際に死んでみようとは思わない。太宰治の人生に興味はあっても同様の人生とその結末を実際に体験したいとは思わないのだ。しかし、映画はそのような世界を垣間見せてくれる。

 映画は最も感覚的で感性的な表現形式だろう。劇場に入れば暗闇が鑑賞者を現実から隔離し、視覚と聴覚いっぱいに広がる映像と音響は鑑賞者の認識を専有する。鑑賞者は作品世界に支配されることによって、その世界を疑似体験するのだ。理解ではなく体験だから、あらゆる人にわかりやすい。難しい理屈を伝えるのは苦手だが、感動を体験として伝えることができる。その感動とは作品世界を創りだした作者たちの認識を追体験したものだから、取りも直さず人間に感動したということだ。だから若いうちに感動できる映画(人生)にたくさん出会って欲しい。もし、その映画を見終わったあと、それがその人のそれからの人生にいくらかの糧となるのなら、その作品はその人にとっての宝物となるのだろう。若いうちなら生涯の宝物となるかもしれない。そんな作品であれば、いくつになっても巡り会いたいし、そのような作品を生み出す創り手の皆さんを私は尊敬しているのだ。

 この作品は物語に登場する彼女たちと同世代の鑑賞者には今年の隠れた宝物になるに違いない。 

<参考文献> 三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」

アントマン

あまり「ニヤリ!」がないスーパーヒーローコメディ 

 笑えるヒーロー物という新しい形の作品だけど、実はそんなに笑えない。笑えないようなシリアスな場面が出てくるというのではなく、そんなに面白い場面がないのだ。つまりちょっと中途半端なのだと感じた。もともと特撮モノは映画の得意分野の一つであるはずだ。現実ではありえないモノやコトを現実のように見せてくれるのは今のところ映像表現の独壇場だ。ならば、その特徴を最大限生かして欲しいのだが、この作品で新しく面白い見せ方といえば、小さくなったり、元に戻ったりしながらのアクションだけ。これはこれで「なるほど!」と思うのだけれど、それだけなのだ。 

 

新しさにも欠ける 

 前半で小さくなる仕組みが原子間の密度を小さくすると言っておきながら、クライマックスでのそのレベルでの空間の描き方はどうなんだろう。従来、SFではミクロの世界には実はマクロの世界と同様の景色が広がっているというのが常套手段だった。前半の説明もその理屈に習ったものだろう。だから、そこの見せ方に期待をしたんだけれど、理屈通りでもなく、新しい世界の提示でもなく、単なるなんだかわからないイメージレベルでしかないように思う。日本ではちょっと気の利いた中、高校生なら同様に「?」と思うだろう。また、この設定の面白さを使っての笑いを工夫しても良かったのではないかと思う。ラストでの巨大蟻やおもちゃの機関車は少しニヤリと出来たけど、でも、せっかくのおもしろ設定なのにこれだけではつまらない。画面もなんだか暗い。もうちょっと弾けても良いのではないかとも思う。製作者の頭のなかには、ディズニーとの違いやMARVELのカラーを出すことがあるのかもしれない。やっぱり、この分野は日本に期待したほうが良いのかな。日本もまだまだなんだけど、とにかく鍛えられた鑑賞者には恵まれているのだから。