映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

シャーリー&ヒンダ ウォール街を出禁になった2人

経済問題ではない 

 邦題だと経済問題を扱った作品だと思ってしまうが、これはあくまで2人のおばあちゃんを追った作品である。原題の「Two Raging Grannies」はそのものずばりだ。だいたいが、ここでおばあちゃん2人が気付く、経済の根本的な問題、「経済活動とは何か」と「永遠の経済成長は可能か、それは必要なのか」という2つの問題は、世界最高レベルの経済学の先生方にも未だに解けていない問題だと私は理解している。当然この作品がその答えを提示することなど出来ないし、現にしようとしていない。問題提起のみで終わっている。だから、このパワフルなおばちゃん2人に比べて学者や学生、企業のトップ、その他経済の専門家たちの不甲斐ないことと言った風にこの作品は描いているが、それはこの監督がこの経済の根本問題の難しさのレベルを全く解っていないからできることだろう。そしてこの作品の本題はおばあちゃん2人の生き方であり、その行動力だ。だが、正直に言うと底が浅いと言わざるをえない。普段、真面目に経済の問題を考えている人たちにとっては経済問題を扱った作品としては観る価値はない。 

ドキュメンタリーとは 

 ドキュメンタリーは事実そのものを伝えるものではない。作者が捉えた事実のある側面が表現されたものだ。特にカメラという機械を使った表現では当初、カメラが対象をありのままに記録したように見えるために事実そのものを記録する表現形式と考えられていた。映画もまた動く写真として生まれたのである。しかし、次第に写真も映画も事実を記録するのではなくカメラという機械を使って撮影者が捉えた世界を再現するものであるということが解ってきた。カメラは事実を写す道具なのではなく、作者の捉えた世界を映すための素材を記録する道具だったのだ。だから、この作品も現実のおばあちゃんたちの人となりと言うより、作者が理解した2人のおばあちゃんであると考えるべきである。つまり、ここで説かれる経済問題も2人のおばあちゃんも作者の理解を通したものだ。では、その理解は鑑賞者である私にはどのように追体験されたかといえば、経済問題についての理解は浅く、2人のおばあちゃんはパワフルで面白いがこれも表面的なものとしか私には理解できないのである。 

天空の蜂

感性と論理の調和 

 久しぶりに映画に没入した。社会問題、人間性と娯楽性をこれほど高いレベルで調和して見せたのは邦画では黒澤明監督以来ではないかと思う。テンポ良くスピード感にあふれた演出だが、一つ一つの見せ場がどれも質の高いもので、鑑賞者の心を掴んで離さない。そのくせセリフや小道具の中に滑り込ませた問題提起は底の浅い感情論ではなく、論理的なものだ。だから、言葉を変えれば感性と論理の調和とも言える。この論理性の面から言えば、原作のおかげというと失礼かも知れないが、黒澤作品以上であると思う。 

 一見、原発を問題にしたように見える。しかし、問題は2つだ。原発自衛隊。作品は問題に対して答えを出さない。原発自衛隊という問題には正解などない。あるのは選択だけだ。電気自動車に乗り、「私は環境にも配慮できる賢い市民です。」という人々に「その電気自動車を動かす電力はどのように作られているのですか?」と問いかけているのだ。電気自動車に乗ることを否定しているのではない。電気自動車に乗るのなら、その電力がどのように賄われているのかをしっかりと認識したうえで選択すべきだと言うのだろう。自衛隊についても同様である。戦後日本の平和は本当に9条の存在だけで守られてきたのだろうか?また、9条さえあれば、これからも同様の平和が維持できると断言できるのだろうか?メリットだけを享受し、リスクには沈黙する。それは正常なことなのだろうか?これはこの2つの問題提起に共通しながら、全ての社会問題に対する私達の姿勢を問いただすものなのだろう。この作品で言われた、「本当に狂っているのは誰か?」という問いは重い。必要なのに見たくないものを見ようとはせず、いざ自分の問題として突きつけられると激情に流される。私たちは身に覚えがあるはずだ。 

 娯楽性の高い物語の端々に現れる、避けては通れないはずの問題を考えるきっかけをこの作品は与えてくれる。中学生以上なら全ての人にそれぞれのレベルでそれを与えてくれるだろう。それほどの力を持った作品であると思うのだ。惜しいのは問題提起がセリフと文章(犯人の犯行声明)という言葉に偏っているという点にある。もっと、映像で見せてくれたなら、さらに参ってしまったに違いない。原因は原作が小説であることだろう。小説は言語表現、概念の表現であるからだ。それに対して映画は感覚的、感性的な表現である。言葉のように深く表現することはできないが、映画はそれがアニメであってもひとつの世界観の中で、まるで現実であるかのように目と耳から認識へ強烈なメッセージを叩きつけることができる。堤監督にはぜひともオリジナル脚本で同レベルの作品を作って欲しいと期待するのだ。 

マジック・イン・ムーンライト

好き嫌いで選ぶのはダメ? 

 これだけ寒い日が続くと、もう随分と前の話のように思えてしまうが、お盆休みの最終日にウディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」を観た。普段、ウディ・アレン物はほとんど見ないんだけど。 

 いつも思うのは、学校の休みの時期は上映される作品が子供向けの作品が殆どとなってしまう。プロの評論家さんたちなら、好き嫌いで作品を選ばず、費用も惜しまず観るというのが正しいのだろうけれど、素人は時間もお金も余裕がない。だから、どうしても作品を選ぶ必要が出てくる。そうするとこの時期は観たい作品がない。それではいけないという反省から、以前に観た「ミッドナイト・イン・パリ」がいつもより自分にとってはマシなほうだったので決心(本当に)したのだ。 

 で、どうだったかというと、ダメでした。作品そのものは悪くはないのだろうし、洒落た構成、演出がキラリと光る作品といえるのだろう。けれど、個人的にダメ。なぜかというと、セリフが多すぎる。特に形容や説明がシツコイくらいだ。それに、登場人物が皆、同じようにおしゃべりばかりなのはどういうわけだ?とりとめのない無駄話を延々と聞かされているようで、途中でイライラしてくる。 

 こういう作品はダメだと言っているのではない。個人的に受け付けないだけだ。こういう映画もあって良いし、演劇ではむしろこういった作品のほうが多い。役者の演劇的技量が試される類の作品だろう。演劇でやれば良い作品と言っているのではない。映画的にきちんと成立している。だが、映像で見せると言うより、役者の演技やセリフ回しで見せる割合の大きい作品であることは確かだろう。その割合がウディ・アレン作品は私にとって大きすぎるのだ。しかし、せっかく観たのだからここは好き嫌いを抜きにして、どのような作品かを自分なりに捉えて置くことが大切だろう。 

 

マイ・フェア・レディ 

 この話、ミュージカルの名作、「マイ・フェア・レディ」の変化技だろう。決してパクリではない。これだけ設定が違えば、もう別の話だ。けれど、ラストで元ネタバラシをやっている。なぜそんなことをするのだろう。何か意味があるのだろうか? 

 「マイ・フェア・レディ」はジョージ・バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」を原作としたブロードウェイの大ヒットミュージカルだ。オードリー・ヘップバーン主演で映画化もされたが、本作のラストでの元ネタバラシではこの映画版「マイ・フェア・レディ」と相似形の演出をしている。元ネタはスリッパで本作はニセのラップ音という違いだけ。両方見た人はすぐにわかる。 

 物語は話し方を教えて生計を立てている音声学者で言語学者のヒギンズ教授が自分の手にかかればロンドンの下町の無教養な花売り娘イライザを半年で一流のレディに仕立てることができると自慢する。同じく言語学者でもあるピッカリング大佐は、それが本当に成功したなら彼女の授業料は全部自分持ちという賭けをヒギンズ教授に持ちかける。賭けはヒギンズ教授が勝ち、彼女は舞踏会でも一流のレディとして振る舞えるようになる。イライザは次第に教授に惹かれていくが、自分も努力して一人前のレディとして振る舞えるようになったのに、未だに自分をまともな人間として扱わないヒギンズ教授に腹を立て、出ていってしまう。当初、賭けのために彼女を教育していたヒギンズ教授も彼女に出ていかれて自分も彼女に好意を持っていたことに気付く。 

 さて、原作の「ピグマリオン」という題名はギリシャ神話に登場する、自ら彫刻した女性の像に恋をする王の名だ。原作では教授とイライザは結ばれない。しかし、舞台版や映画版では観客の好みを考慮して二人が結ばれることを暗示した終わり方となっている。自ら教育した女性に好意を抱いていくような状況をピグマリオンコンプレックスと呼ぶらしいが、原作は二人が結ばれない結末を選んでいるということだ。 

 間違えてほしくないのは、この物語のイライザがどんなに教育しても(当時考えられていた)一流の女性には成りえないということを言っているのではないだろうということだ。教授は粗野な話し方や態度に隠れたイライザの内面の素晴らしさに知らず知らずにひかれていったのだ。その彼女の内面の素晴らしさが自らの教育によって光り輝きだしたにも関わらず、元の粗野な彼女のイメージのままにそれを認めなかった。彼女の成功は自分の教育があってこそであり、教授自身の実力の反映であるとしか考えなかった。それが間違いだったと気づいた時にはもう遅かったというのが原作の結末だ。ここには個人の本質は生まれや育ちにかかわらず、環境や教育によって作られるものという考え方が前提にあると思われる。それはイライザの父親のエピソードにも現れているだろう。彼は無教養にもかかわらず、金持ちへのタカリで培った弁舌をもってアメリカで道徳家として成功してしまう。これはイギリス的階級社会と薄っぺらな教養への皮肉だろう。ところが、舞台版や映画版ではイライザと教授は結ばれてしまうように思われる。この結末にジョージ・バーナード・ショーは最後まで反対していたという。二人が結ばれてしまえば、彼女が教授の教育によって一流の女性となっても、彼女を花売り娘としか見ていなかった教授を認めてしまい、教育の重要性を否定してしまう。それに、一流の女性と言っても、原作では彼女は若い貴族の求婚を受けてしまうだろう。これで、教育によって自立した女性の姿といえるだろうか。この辺りも原作の考えかたを表しているものだろう。彼女の生き方は原作者、ジョージ・バーナード・ショーの階級社会と教育への二重の皮肉であったに違いない。だから結末にこだわったのだろう。 

 では本作「マジック・イン・ムーンライト」ではどうだろう。嘘を真実として生業とする娘占い師ソフィと種も仕掛けもある嘘を生業としているマジシャン、スタンリーの恋物語だ。嘘はそれが真実であると言って初めて嘘になる。嘘やニセモノだと公言していればそれはニセモノとして立派な本物なのだ。 

 で、マジシャンは占い師を教育しないから、ピグマリオンとは関係ないように思える。ただし、彼は彼女に読書を勧め、これからでも変われると説教をするから、ここにも確かにピグマリオンマイ・フェア・レディを意識していることが伺える。マジシャンは一旦は占い師を本当の霊能者だと信じてしまうが最後にはその嘘を見抜いてしまう。しかし、彼はその嘘の後ろに隠れた彼女の素の美しさに魅せられてしまう。つまり、本作での占いという嘘とピグマリオンでの上辺だけの話し方、本作での人を騙すマジックの腕とピグマリオンでの話し方の教育ということを入れ替えてみれば、貧しい境遇で育ち、まともな教育を受けなかった占い師と裕福な家庭で育ち、教養もあるマジシャンとの対比も含めて話の構造はピグマリオンマイ・フェア・レディとほとんど同じなのだ。しかし、ここでは教育や階級社会の問題は小さく退いていて、2つの嘘のあり方の対比が前面に出てきている。ではそれぞれの嘘の下にある二人の本心とはいったい、何を意味しているのだろう? 

 Wikipediaではウディ・アレンは宗教嫌いということらしいし、「ウディ・アレン 宗教」で検索すると彼の実存主義的な考えに基づいたコメントも出てくる(10年前のものだけど)。 

 もちろん、ウディ・アレンが描きたかったのは、そんな小難しいごたくを訴えるための映画ではなく、楽しい一時を観客に与えるロマンチック・コメディだから、そんなことは別にはっきりさせなくても良いのだけれど。だけど、なぜラストシーンでマイ・フェア・レディと相似形の演出をしたのだろう。この物語はマイ・フェア・レディへのオマージュにも皮肉にもなっていないんじゃないかと思う。あれだけセリフを積み重ねながら、おしゃれなロマンチック・コメディでしかない?いや、そうではないかもしれない。が、私には結局彼が何を言いたかったのか理解できないのだ。あれだけ登場人物が訳ありげにしゃべるものだから、何かあるのだろうと思ってしまうのだけれど。もともと彼の作品があまり好きではない私は色眼鏡を外して観ることができないのかもしれない。そんなメガネを外してみれば、もっと素直に彼の作品の魅力を見つけることができるのかもしれない。それで、彼の作品に対する観方が良い方へ変わるなら願ってもないことなんだけど。 

 (けれど、この作品がそうだとは私には解らないのだけれど「ここにはこんなオマージュが作り込まれているし、ここにも、ここにも・・・」というのであれば、参考までには聞いておくけれど、観方は変わらないでしょう。私はどうもオマージュ当てを自慢する一部のマニア向けの面白さにはついていけないのです。そういう面白さもあっていいと思うけど、それは1本の映画作品として成り立っていての話。オマージュ探しのためのオマージュはなんだか虚しい内輪受け、同族相憐れむ感じで好きになれない。好き嫌いではダメですか?) 

海街 diary(4/4)

アカデミー賞作品「バードマン」との比較

 もちろん、是枝作品は表現の構造を説明するために撮られたものではないだろう。では、この撮影方法による効果を何のために使ったのかを似たような主観表現という、同様の手法を使った作品、「バードマン」と比較してみよう。

 私は以前のアンドロ・G ・イリャニトゥ監督「バードマン」の解説の中で映画表現における視点は次の3種類あると言った。

1)作品世界内の視点(登場人物の視点や作品世界内を客観的に捉えた視点)

2)作者の視点

3)鑑賞者の視点

 この3つの視点は論理的には3種類であるが、見かけ上は1つである。1つの視点=ショットが3つの意味を持つと言い換えることもできる。

 「バードマン」においては1)の登場人物の視点を繋いでいくことで、その主観を映像化していくということが試みられていた。だから鑑賞者は登場人物の頭の中の世界を直接見ていくこととなる。過去の自分の役柄に囚われた主人公の頭の中の世界は異常なものだ。これに対して「海街 diary」は作者の視点をあくまで表現効果として繋いでいく。こちらは異常などではなく、観る者の心を強くつかむ生々しいものだ。

 「バードマン」は登場人物の主観を映像化してみせることが目的の1つであったと思う。一見、非現実のような場面が現実的な場面とワンカットで繋がれていくところに、この作品の面白さと表現意図がある。もちろん「海街 diary」を撮った是枝監督にそんな意図はないだろう。ここに書いたような客観による表現だの主観による表現だのという小難しい理屈も考えていないだろう。この撮影方法によって得られる独特の効果だけが目的であったのかもしれない。だが、これが人間が見るということの構造の実際を特徴的に再現しているために、鑑賞者は画面に強く惹きつけられるのだ。画面は擬似的な客観世界ではなく、作者の「対象に強く集中してほしい」という認識の対象化、表現なのだ。

 ただ、私はこの作品が好きであると同時に、これからの監督の作品に少しの不安を感じてもいる。この手法を取り続けることへのリスクをである。そのひとつはこの手法と鑑賞者との慣れと飽きだ。鑑賞者は是枝監督の作品であればこの同じ感覚を得られるということの安心感と同時に同じものしか得られないという2種類の期待を持つこととなる。時が経つほど後者の割合は強くなるだろう。映画作品は撮影手法だけで成り立つものではないから、他の要素で新たな魅力を提供すれば良いのだが、この撮影手法がいつまでも武器であるとは言えないのだ。

 もうひとつのリスクはこの手法を使い続けることの作者への影響だ。この手法はただ対話するだけの役者をも生々しく表現するだろう。だが、演者もそれを使う者、捉える者もその効果に慣れてしまわないだろうか?その効果なしでも鑑賞者を強く惹きつける工夫を怠るようにはならないだろうか?

 こんなことは釈迦に説法とは解ってはいるが、是枝監督には人を優しく見つめながら芯のある作品をこれからも見せてくれることを期待してのことである。

 

海街 diary(3/4)

落ち着かない心と意識の集中とは?

 しかし、海街 dialyを観て画面がブレているとは思えないし、落ち着かないと言っても、非日常を意識しているわけではない。それでも意識は強く画面に惹きつけられているのだ。これは、検証してみたわけではなく、あくまで私見であるが、気が付かないほど僅かに動く画面はまるで対象を凝視した時に対象が僅かに迫ってくるようなあの感覚を再現することになっているのではないだろうか。

 対象に強く集中すると、実際の対象との位置関係は変わっていないのにまるでズームアップしたように感じたり、対象が微妙に移動しているように感じたりしたことはないだろうか?手持ち撮影が非日常にある人間の見え方を再現することで見ている者のこころに非日常感を湧き上がらせるのと同様に海街diaryの撮影方法は対象を凝視したときの人間の見え方を再現することで鑑賞者の問いかけを強くする効果を得ているのではないかと私は考えている。

 また、見方を変えれば、通常の固定カメラは対象を客観視し、それを世界(存在)として表現しているが、手持ちカメラでの撮影や僅かに移動するカメラでの撮影は世界を捉えた主観を表現していると言える。

 私達が日常に於いて外界(世界)を視るとき、世界は世界のままにただ存在し、私たちは世界をそのままに視認している(と思い込んでいる)。映画を鑑賞するときはその映画の作品世界を仮の客観的世界として、その仮の世界を媒介として作者の認識を追体験することになる。しかし、ブレる対象を追いかけたり、凝視した時のように動く画面は作者の創造した作品世界(作者の認識)の直接の再現であり、鑑賞者は物語の世界を媒介としながら、直接に作者の視点(認識)を見せられることになる。

 ということは、是枝作品が全編にわたって僅かに動く画面で表現されているということは、是枝作品は作品世界を客観ではなく、主観で表現しているともいえるだろう。だが結局のところ、映画(を含む表現)はそれがドキュメンタリーやルポルタージュであっても(文章表現かそれ以外かを問わず)、作品という実体を媒介とした作者の主観の表現であることに変わりない。

 

次回こそ「海街 diary 」編の最終回。「バードマンとの比較」の予定です。

海街 diary(2/4)

 マッドマックス 怒りのデスロードがあまりにも面白くて、途中でいろいろ書くことになってしまったので、ようやくこちらに戻ってきた。すみません。

 

落ち着かない自分・惹きつけられる自分

 映画は動く写真として生まれ、まだ、映画として成長する以前から現在とほぼ同様の移動撮影が試みられていた。ズームレンズが開発される前から被写体に向かって近寄ったり離れたりしてもピントを外さない職人技があった。移動撮影は馬や列車の疾走を捉えたり、回り込みや高所への移動など現実と見紛う、または現実では見たくてもできない視点を提供するために使われた。また、移動の変化技として、焦点をある被写体からまた違う被写体へと移せば鑑賞者の視点(問いかけ)もともに移動する。このような視点の移動は作者の表現意図を明確にし、鑑賞者の作品によって呼び起こされる感情や理解を効果的に増幅する。しかし是枝監督の撮影は同様の効果を担ってはいるが、本質的に違う意図を持って使用されていると思われるのだ。

 是枝監督がこのような動くカメラによる撮影方法に開眼したのはどうやら「空気人形」で台湾のリー・ピンビン撮影監督と仕事を共にしてかららしい。(参考:川越スカラ座イベント情報)それまでは動くカメラが好きではなかったというが、この作品で「カメラに対する考え方が深まった」というのだ。これはどういうことなのだろうか。まず、この撮影方法によって得られる上記に紹介した通常の移動撮影で得られる効果以外の効果を考えてみたい。

 私はこの作品でこの撮影方法に気づいた時、少し落ち着かない自分の心と、反対にスクリーンに強く惹きつけられている自分を同時に感じたのである。この鑑賞者の認識の不安定感と問いかけの集中という効果は手持ち撮影と本質的には同じものだと考えられる。手持ち撮影は画面のブレが特徴だが、移動撮影の変化技であると捉えられがちだ。移動しなければブレは生まれないからだ。だが、手持ち撮影の本当の目的は移動ではなくブレることで生まれる効果だろう。

 

手持ち撮影との比較

 手持ち撮影の最大の効果は臨場感だ。カメラを手持ちで撮影するために画面がブレる。そのブレが鑑賞者にまるで作品世界の中にいるような錯覚を起こさせる。蛇足だがしかし、これは臨場感という錯覚と同時に対象の見え方についての錯覚でもある。

 通常私達の生活の上で、自分の視覚のブレを意識することは稀なことだ。それを意識するのは自らの運動能力の限界近くかそれを超えた動きに晒された時だけである。例えばスポーツで激しくプレーした時や転倒や衝突、事故などの時だけである。日常において歩いたり走ったりすれば確かに感覚器官としての視覚は細かくその位置を移動して(ブレて)いる。それはそのことを意識していれば当然のように感じ取れる。だが私たちは通常それを意識しない。また、カメラはある対象にピントを合わせると、その対象の前後の物にはピントは合わずボヤケてしまう。しかし私たちはそのようなボヤケを感じず、常に世界をパンフォーカスで捉えていると感じている。これは人間の視るという行為の構造に理由があることをまず、確認しておこう。

 人間の視るという機能はカメラとモニターの関係とは違う。カメラは対象からの光学的情報を電気的な信号に置き換え、それをモニターでまた映像として再構成するから、再構成された映像はあくまで光学的な情報に基づいている。しかし、人間の場合、感覚器官としての目から入った光学的情報は脳によってその人なりに像として再構成される。そしてこの像は単に映像としてだけではなく、匂いや味、音や触り心地などの他の感覚器官からの情報と同時に合成されるとともに各感覚器官で捉えた対象から連想される記憶やそれに付随する感情までをも合成した1つの世界として再構成される。これを認識という(参考文献・海保静子著「育児の認識学」)。

 余計なことまで確認となったが、要するに人間は単純な光学的な見え方、捉え方をしているのではない。見え方に限定すれば、ブレやピントを常に補正しながら像を創り上げているのだ。だから、普段は世界を手持ち撮影のように見ている人は、ほぼいないはずなのである。けれど、手持ち撮影を見て臨場感があると感じるのは自分たちの視覚も実はブレて動いているということを経験的に知っているからだ。

 この手持ち撮影は、臨場感とともに不安定感を引き起こす。鑑賞者の心はブレる視覚に伴って安定を失い始めるのだ。と同時にカメラが追う対象に強く意識を集中する。あたかも自身が激しく動きながらも心身の正常を保とうとするかのように。人は自分の視覚がいつもブレていることを経験的に知っていると書いたが、経験的に視覚がブレているときはだいたい自身が非日常的な状態にあることも知っている。だから、見ている対象が激しくブレていたなら、逆に心が非日常と錯覚を起こすのだろう。是枝監督の使っている撮影方法による効果もこの手持ち撮影による効果と理屈として同様の構造を持っている。

マッドマックス 怒りのデスロード (3/3)

昔々、あるところに・・・

 2つめの系譜マッドマックス2では物語はアクションに対して従の関係にあると言いました。何でもありのアクションを活かすために作られた核戦争後の荒廃した世界という設定。しかしそれが後の多くの表現に大きな影響を与えることとなったのですが、これも全く下地のないところから生まれたわけではありません。

 昔話の始まりの慣用句、みなさんも知っていますよね。「昔々、あるところに・・・」というあれです。この昔話のパターンをアクション映画風に焼き直すと

 「昔々(または、何時かもわからない)ある街に、どこの誰ともわからない男がやって来ました。男はその街にはびこる悪人たちの企みやいざこざに巻き込まれますが、知恵と力を駆使して悪人たちを退治します。街には平和と喜びが戻ってきますが、男は何も言わずに何処へともなく去っていきましたとさ。」

 さあ、どこかで聞いたような話ですね。このパターンで、後半の「男は何も言わずに・・・」以降を除くと神話の時代から世界中にある英雄譚となります。これは人類にとって普遍的な物語と言えるのでしょう。日本では股旅物という形で映画でも広く親しまれました。ただ、神話にみるようにこのような英雄譚はエピソードが多く長いのが特徴。これを小説やさらに映画的にコンパクトにまとめると「何も言わずに・・・」というスタイルが生まれてきたのではないかと思うのです。この方が映画においてはハードボイルドさや、英雄の哀愁のようなものが際立つのです。それを映画における1つのスタイル(文体や定型という意味での)として確立したのは日本の黒澤明監督だと私は思うのです。

 

定型の確立

 このスタイルに近い形の映画は黒澤明監督が最初ではないでしょう。洋画、邦画ともに数ある中でも西部劇の傑作で1953年製作、ジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッド主演の「シェーン」はこのスタイルの代表作ですね。この作品はガンマンと殺し屋の決闘がクライマックスで、ガンマンであることの恐怖や殺し屋の非情、決闘の緊迫感を現在の作品のような血や肉の飛び散る映像を全く使わずによく表現していて素晴らしいものです。ですが、それだけではなく、少年との友情や許されない恋心、街の人々との心の交流や彼らの人情など、内容が盛り沢山です。そのどれもがそつなくしっかりと描かれているのがこの作品の傑作たる所以なのですが、本来、血なまぐさい話のはずなのに、人の心の善の側面を美しく強調し、その上あまりにも複雑で優等生的なのです。そのせいで作品としては傑作であっても、そのスタイルを映画史に残るものとして確立することは出来ませんでした。

 ここで登場するのが黒澤明監督です。まず黒澤監督はこのスタイルで傑作七人の侍(1954年公開)を撮っています。先の「シェーン」と同時期の製作なのは興味をそそられるところです。この作品は「シェーン」と同様に先に挙げた英雄譚的設定である上に、村人との心の交流あり、幼い恋心ありと内容もよく似ています。ところが鑑賞者に与えたインパクトはこちらの方が遥かに強烈でした。なぜなら、綺麗事ではない、人間の生の感情と生死のぶつかり合いがあったからです。後にハリウッドでもリメイク版として「荒野の七人」が製作されています。さらに黒澤監督はこのスタイルを用いて、あの「用心棒」(1961年公開、三船敏郎主演)を撮りました。黒澤監督はこの作品をダシール・ハメットの探偵小説「血の収穫」を元にしていると言っていますが、原作小説の男臭い味わいやリアリズムをより際立たせるために、主人公の素性までをも贅肉としてそぎ落としました。そのためにこの映画の主人公はやって来る理由も去って行く理由も解りません。それがかえってこの男のキャラクターを魅力的にしているのです。そして、続編の椿三十郎とともに大評判となりました。黒澤監督はハメットから得たこの物語のエッセンスをつかみ取り、最も効果的に表現するために「七人の侍」で成功したこのスタイルを選択したのでしょう。しかし同時にこのスタイルの最も効果的な使い方を発見したと言い換えても良いでしょう。みなさんもご存知のように「用心棒」はマカロニウエスタンの名作「荒野の用心棒」セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演)として無許可でリメイクされました。裁判沙汰にはなりましたが、続く「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」の世界的ヒットで黒澤監督が完成形として創り上げたこのスタイルは娯楽アクション映画の定番スタイルとなったのです。こうしてみると黒澤監督がなぜ世界の映画関係者から尊敬されているかが解ります。黒澤監督は数々の名作を世に出しただけでなく、新たな定番の映画スタイルを完成して見せたのです。

 さて、ここまで来るとジョージ・ミラー監督は自身が創り上げた世界観にこのスタイルをうまく当てはめているのがよく解りますね。こうしてここでもまた1つ、新たな映画スタイルが誕生したと言っても間違いではないでしょう。ただし、普遍的なスタイルではなく、ジョージ・ミラー節とも言うべき個性的なスタイルです。