映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

La La Land

素晴らしい! 

 ほんとに素晴らしい作品だなと思う。この監督、前作の「セッション」も素晴らしかったけど、ミュージカルがここまでできるとは驚きで、私のような古い映画ファンには涙モノ。何しろ、物語の前におもむろにスクリーンを区切るカーテンが開いて「シネマスコープ!」だから。この辺のことや内容の素晴らしさについては多くの人がコメントするだろうし、ぜひ本物を劇場で見て堪能してほしい。だから私は少し違う観点からの素晴らしさを考えてみたいと思う。 

 

「映画とは何か」を良く解っている 

 映画とは所詮、夢物語だ。この”所詮”というのは決して映画を馬鹿にして「どうせ・・・」という意味で使っているわけではない。「結局のところ」とか「本質的に」という意味だ。 

 映画の草創期、映画は芸術か単なる見世物かで大きな論争となったことがあった。これは映画が見世物として生まれたことと、その発達が映画作りの職人によってなされたこと、そして映画作りには監督という統括者はいても理論的に作者を一人に限定しづらいことなどが大きな原因となった。このブログで昨年の総括と今年の抱負として挙げた映画理論講義(J・オーモン,A・ベルガラ,M・マリー,M・ヴェルネ 著)という著作がある。一応この本が映画理論の教科書的存在となっているらしいのだが、上記の論争から生まれた迷走がこの本に如実に表れている。興味のある方は読んでみるのも良いけれど、きっと何を言っているのわからないと思う。この本を解るという人は事実をしっかりと捉えることのできない人だ。その辺のことはいずれお約束通り私が解説しようと思うのだけれど、何しろ本の内容が多岐にわたり迷走も幅が大きく、いちいち付き合っていられないくらいなものだから、どう整理してやろうかと今、準備中なのだが、結論を言えば、 

「La La Land を観ろ!」 

ということなのである。 

 芸術は芸術だと言ってしまえば芸術であるし、その価値は作り手と鑑賞者の相対的な関係の上で成り立つこと。映画は表現の形式であり、芸術は常に表現と興行の両側面を持っていて映画は興行面が強いだけであること、作り手と語り手がどうこう言うより、役者も撮影も美術も関わる全ての人々の表現を集めてそれらを媒介として一つの作品にまとめあげる、それが監督の役目で、それは監督の心の世界の写し鏡であること。だから、ドラマではなくても、ドキュメンタリーやルポルタージュであってもアニメであっても、それは出演者と演出者の表現を集めて監督の精神を通して表現されたという意味では、心の在り方を集めて作られた「夢」であると言っても良いということ。そのことがこの作品を観れば一発で感覚として理解できる。 

 この監督は映画とはどのようなものかということが良く解っている。それは彼がジャズプレイヤーを目指していたことと大きくかかわっているだろう。理屈をこねくり回す学者より、表現するということを体で解っているのだろう。 

 La La Land というタイトルも粋だ。映画が夢であるだけでなく、ミュージカルは歌とダンスでその場面での登場人物の心の有様を表現するものだということが解っていれば、セバスチャンとミアがわざわざタップシューズに履き替えて踊りだしても、プラネタリウムで中を飛んでも、躊躇もてらいもないのだ。物語世界の現実と登場人物の心の世界との垣根がなく表現される作者の夢の世界なのだ。私たちはその作者達の夢の世界の集合体を監督に導かれながら追体験をする。 

 エンドクレジットに流れる曲の並べ方なんて絶妙だ。使った曲をただ並べるだけでなく、観客が作品の余韻に浸れるように考えて並べてある。彼にとっては3作目は難しいだろうけど、期待せずにはいられない。 

 

追記 2017年03月13日

 さて、前回は「理屈じゃない!」みたいなことを言っていながら、理屈をこねてしまったのだが、二度目の鑑賞での内容についての感想を。一言で言って、 

「なんだか、切ないねェ・・・」 

 シネマスコープとテクニカラーとスタジオセットのような撮影で、明るく、楽しく、ハッピーエンドの'50風ミュージカルかと思いきや、現実はキビシーというお話。なるほど、二度目を観ると、セバスチャンの車がなんだかわからない古いフルサイズのオープンのアメ車で今時カセットテープで音楽を聞いているのに、ミアの車はハリウッドセレブ御用達のプリウスだというのが、単にキャラクターの性格付けのためだけでなく、その性格と将来の姿を象徴していたんだなと、思ったりもする。ストーリー自体はごく単純なものだけれど、作りはやっぱり凝っている。だから、最初のシーンですでに夢をつかむ彼女と過去を引きずってしまう彼の姿が暗示されていたんだなあと思ってしまう。ラストシーンの二人の微笑みの意味を観る者のそれぞれの思いに委ねてあるのは監督の優しさなのかもしれない。 

 好き嫌いが別れる作品なんだなと思うけれど、アカデミー賞が作品賞ではなくて、監督賞というのはアカデミー賞も「まだまだ、捨てたもんじゃない、解ってるねぇ〜!」というところで、こんな風に楽しませてくれる作品、やっぱり、好きだなぁと思う。 

虐殺器官

設定に疑問 

 私は伊藤計劃という名前を知らなかった。某映画評論サイトでの紹介文で初めて知った。時代を画するような才能を認められた作家が若くしてこの世を去っていたということ、そして彼の作品を原作とした映画作品が公開されるということに興味を持った。だが、それはハード系のSF設定のアニメではありがちの饒舌に過ぎてキャラクターの甘い作品だった。 

 結論から言えば、設定が甘く、人物描写がご都合主義的であるということになる。原作の評価がすこぶる高いようだが、私は未読だからそこについては評価は出来ない。この作品が原作に忠実なものなのか、原作を元に創意工夫を加えたものなのかも解らない。だが、本作が原作に忠実なものであれば、原作者が夭折したこと、原作を10日で書き上げた、病床の約3日で書き上げたというような言説に評価が引きづられているのではないだろうかと思ってしまう。近々原作を確かめるつもりだ。 

 SFの主要な魅力一つに、空想ではあっても統一された世界観というのがある。その中でも技術や世界についての科学的知見の統一感はその作品の肝となるものだ。SFはどんなに荒唐無稽な理屈でもシンプルで強固な筋が一本キチンと通っていれば、後は物語の面白さなのだ。枝葉末節の矛盾に対する揚げ足取りに対しても、物語本来の面白さの前にはどうということもないように思えてしまう。だが、本格の装いの強い作品ほど根本に筋が通っていない部分があると興ざめするものである。私自身はお世辞にも科学に強いというわけではない。その私が科学云々以前の論理の破綻に気づいてしまうのだから、ちょっと首をかしげてしまう。ネタバレになってしまうが具体的に挙げてみよう。 

 この物語の伏線の重要な解答の一つに「虐殺の文法」というのがある。虐殺が行われている地域の会話にはあるパターンが存在するというのだ。それは太古から人類が生存のために育んだ器官が脳に存在し、その発動が会話にパターンとして現れる。ある言語学者がそれに気づき、そのパターン、つまり虐殺の文法を為政者との会話に忍ばせてその行動を方向づけ、その国に虐殺を蔓延させるというのだ。さて、ここに私は疑問を感じてしまうのだ。 

 それは言葉の概念規定への疑問である。”虐殺器官”というが、器官と言うのは実体である。そして脳は実体として存在し、だからこそ一つの器官だ。右脳と左脳の役割が違うということはよく言われることだが、また、右脳だけ左脳だけで役割を果たすことは出来ず、脳幹を含めた全体で体と心を統括するという役割を果たす。となれば、人間の脳にこの物語で言う虐殺の文法に反応する部分が存在するとしてもそれは”器官”ではなく、あくまで脳という器官の部分が反応したり働いたりするのであり、それはあくまで脳という器官の働きであり”機能”と呼ぶべきではないだろうか。 

 人間と他の動物との分水嶺はその行動規範が本能であるか、認識によるものであるかの違いにある。ところが物語上の説明では虐殺の文法の原基形態は人類がまだ、猿からしっかりとは別れていなかった頃に本能に刻まれてきたもののように解釈できる。その頃の、後に人類となるサルたちに言語というもがあったのだろうか。個体の発声による群れの行動が存在したにせよ、それは本能レベルの、外界の変化に群れがパターン的に反応するための信号のようなものでしかなかったのではないだろうか?これと人間の外界を選択的に捉える、問いかけ的認識とは似て非なるものだ。人間は生理的な肉体の統括以外の本能を失うことによって、認識を発生させた。このことで人間は教育され学ぶことによってしか人間にはなれなくなった。しかしだからこそ、自らを犠牲にすることも自殺することも可能になったのである。本能から認識への発展過程において本能的な発声による信号が認識の交換という言語活動に受け継がれた部分があるにしても、自殺や虐殺は本能的なスケープ・ゴートとは論理がまったく違うはずである。この物語はその違いを一緒くたにしてしまっているよう思えるのだ。 

 生まれて間もない赤ん坊は、教えなくても本能的に泳ぐことができるという。しかし、認識の成長とともにその本能も消えてしまい、あらためて教育されなければ泳げなくなってしまう。しかし、そこで学ぶ泳ぎ方は人類の歴史的試行錯誤の結果生み出された技なのである。人間は環境(自然)の一部であるための本能による動きや行動規範の発達の限界に達し、自ら環境を作り出し、その新しい環境に適した体の動きを統括するために限界に達した本能を捨てざるを得なかったのだ。つまり、私にはどうしてもある言語パターンが人間の脳に未だに潜む本能を呼び覚ます、というアイディアに納得出来ないのである。それでは虐殺器官の発生と言語との関係に敵対的な矛盾が生じてしまう。 

 だから、私は今一つこの物語に没入できなかった。専門家ではないから疑問でしかないのだが、私にすら疑問を抱かせてしまう、本格を装ったSFと言うのはどうなのだろう。 

ナイスガイズ!

ラストの皮肉に思わずニヤリ 

 息苦しく、不安な今に'70の懐かしい雰囲気、痛快なバディ・ムービーを楽しみたければオススメ。だけど、それだけじゃない。

この作品、いつ企画されたのだろうか?まさか、2016年中に企画の立ち上げから公開まで進めたのか?そんなことはないだろうけれど、どうしても今、「言ってやりたい!」事があって、そいつにピッタリの企画があったから、その中に「言ってやりたい!」ことを仕込んでしまったというところなのだろうか。とにかく、このご時世にピッタリの作品なのだ。そして、それを聞いた観客は、特にアメリカの観客は賛否に分かれて立ち上がり、日本の観客は思わずニヤリとせずにはいられないだろう。 

 舞台は1977年のロサンゼルスらしい。当時は日米貿易摩擦が大問題となっていた頃。この物語の背景もアメリカ製造業界の屋台骨を支える自動車産業、いわゆるビッグスリーGM・フォード・クライスラー)の苦境が下敷きとなっている。このあと日米貿易摩擦は自動車紛争へと発展していく。 

参考:https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_040.aspx 

ここを押さえておかないと、単なる面白おかしいバディ・ムービーと見間違えてしまう。いや、もともとはそういう企画だったのかもしれないし、そういう作品としても十二分に楽しいのだが、それだけではない。物語は自動車産業界の政府との癒着を告発するために創られた一本のポルノ映画にまつわる連続殺人事件へと発展していくのだが、そこに彼らは「今、どうしても言ってやりたい!」ことをたった一言だけ、けれど全編を巧妙に下敷きとした強烈な皮肉として仕込んだのだ。実はこの作品自体が物語に出て来るポルノ映画と同様の役割を果たしているのだ。 

 さて、その一言の皮肉とは、これが面白い。それはラストシーンのライアン・ゴズリング演じるホランド・マーチがラッセル・クロウ演じるジャクソン・ヒーリーに対してのセリフなのだが。 

 「どうせ、5年も経てば・・・・・」 

 「・・・・・」の部分は観てのお楽しみなのだが、そこがわかればそのセリフは決してヒーリーに対してのセリフではなく、今見ている観客に対してのセリフであり、あの有名な金色とさかの人物へのメッセージだということがはっきりする。当時の自動車技術を考えても、自分の車の標準装備についても知らないようなマーチのキャラクターを考えても物語世界では到底出てこないセリフのはずだ。普通このような演出は観客を物語世界から現実世界へと引き戻してしまい、興ざめさせてしまうのだが、このセリフをラストの絶好のタイミングに持ってくる上手さに脱帽なのだ。 

 私はこのシーンを何にも増して痛快に思った。これをやってしまうアメリカの映画人のパワフルさと勇気に拍手なのである。背景にはもしかしたら映画界の既得権益者とのつながりがあるとしてもである。 一見の価値あり。

キセキ あの日のソビト

アイドル映画じゃない 

 松坂桃李菅田将暉のダブル主演だから、若い女の子のファンが目当ての作品だと思ってしまう。実在する、異色の人気ボーカルグループの実話がベースの話だから、音楽満載の派手な作りと想像してしまう。

 確かに冒頭のライブのシーンは派手なツカミなのだけれど、唐突に転換する次のシーンでは全く違う雰囲気に観客は心を掴まれてしまうのだ。そしてクレジットが流れ始めると、なんとも懐かしい日本映画の味わいだ。驚きとともにますます引きこまれてしまう。 

 

素晴らしい環境音 

 ここから、作品は一見、淡々と進む。普段テレビドラマしか観ない人たちにとってはテンポが遅く、歯がゆく感じるかもしれない。しかし、映画ファンにとっては結構シビレル演出だ。カメラの移動と転換を削いで、役者の演技をしっかりと捉えるやり方は日常と裏番組とCMの狭間から抜け出せないテレビドラマでは出来ない作りだ。お金を払い、劇場の椅子にしっかりと腰を据えた観客の目を裏切らない。目だけではない。耳をすませてほしい。音楽がテーマの一つである作品なのにBGMが極端に少ない。しかし、無音ではない。登場人物が演じる葛藤の裏に微かに聞こえる環境音。夕方を知らせる有線放送、街のざわめき、風が揺らす窓のがたつき。これらが画面に奥行きと流れを与え、リアルさを増し、役者の演技を際立たせる。映画ならではの美しい作りだ。 

 

主役は松坂桃李 

 人にはそれぞれ役割がある。夢とかの次元をこえて。そんなセリフが出てくるが、それもこの作品の大きなテーマの一つだろう。松坂桃李演じるJINは確かに挫折したのだろう。しかし、また違う形で夢を叶える道を見つけたのだ。努力は嘘をつかないとか、信じればかならず叶うなどというのは嘘っぱちだ。方向の間違った身にならない努力もあるし、取り返しのつかない間違いということも往々にしてある。それでも自らを信じて進むしかないのが人生なのだ。確かなのは歩みを止めさえしなければ必ず変化はあるし、そこに新たな夢を見出すこともできる。自らの人生を注ぐ対象はなんでもいい。重要なのはその対象にいかに、そしてどれだけ取り組めたか、なのだ。だから、この作品はダブル主演というよりも、松坂桃李主演の青春映画だ。久しぶりに、現実をしっかりと見つめた気持ちのいい青春映画だ。 

ザ・コンサルタント

新しいスタイル 

 ジェイソン・ボーンのファンなら絶対ハマる、本格サスペンス・アクションと言う触れ込みの作品。それに違わず結構良い出来。

 本格的(に見える?)アクションと見事なサスペンスの融合。ラストに向かって張られた謎(伏線)が次々と見事に澱みなく回収されて行くさまは本当に職人技。

 本作の肝は主人公のパーソナリティにあるが、その使い方が新しい。新しいスタイルのアンチ・ヒーローの登場だろう。

 この主人公の特徴(一般的には障害、この物語の中では才能)がピンチを呼び、またそれを切り抜ける力ともなるので、本当にジェイソン・ボーンようなヒットシリーズとなるかもしれない。続編の展開が楽しみな、アメリカ映画ならではのオススメ本格アクション映画。 私もハマりそう。

初詣

あけまして、おめでとうございます。

 

今年も初詣に行ってきました。

一昨年は「百円の恋」

去年は「マイ・ファニー・レディ」

そして今年は「海賊とよばれた男

 

初詣は元気をもらえそうな作品を選ぶことにしています。

1年のスタートですから。

 

海賊とよばれた男」悪くはなかったですよ。元気をもらいました。でも、やっぱり、この話の魅力はモデルとなった出光佐三のものと言っていいでしょう。

余談ですが、出光佐三についてはこの作品の原作本よりも、個人的には水木楊著「出光佐三 反骨の言霊」のほうが読みやすく、面白かった。ドキュメントとしてではなく、あくまで、読み物としてだけど。

 

君の名は

日本の映画界における今年一番の話題といえば、なんといっても新海誠監督の「君の名は」の大ヒットでしょう。あらゆるメディアで話題となっています。しかし、この作品の興行面でのヒットの要因という話題は多くても、表現、作品としてのまともな評価というものはあまり目にしないようです。では、この作品、単にヒットの様々な今日的要素をうまく組み合わせることが出来た、プロデュースが上手く行っただけの作品なのでしょうか?私は違うと思います。この映画をプロデュースした人は新海誠監督の他にはない得意技をしっかりと理解していて、それを上手く活かしてヒット作品としたのだと考えています。ではその新海誠監督の得意技とは一体何なのでしょうか?

 

 君の名は」における新海誠監督の得意技は新しい映画表現を拓く 

 結論からいうと、新海誠監督はアニメーション作品において、キャラクターの感情表現と鑑賞者の作品世界への二重化を背景の工夫で実写作品以上のレベルに仕上げることに成功したのだと思うのです。 

 少し詳しく説明します。作品の内容については数多く解説されているのでそれらを参照していただき、ここではなぜ背景の工夫が鑑賞者の認識の二重化を強化するのかを私なりの考えとして示していきたいと思います。 

 新海監督の作品は背景の書き込みが緻密なことで知られています。ここが強調されていて、なぜ監督がそこまで背景にこだわるのか、そのことを明確に解説した論にはお目にかかれません。単に彼の特徴なのではなく、少なくとも、本作「君の名は」では確実にある効果を狙って意図的にその手法が使われています。これは彼の過去の作品を見れば明確です。 

 最初期の「彼女と彼女の猫」はモノトーンの短編作品ですが、すでに背景の凄さは現れています。ただし、この頃は明らかに今のような意図があったとは思えません。ここから名作「秒速5センチメートル」まではキャラクターの想いを解説するようなナレーションの非常に多い作品が続きます。特に「秒速5センチメートル」ではキャラクターの心象をナレーションとともに背景で語るような監督のスタイルが完成しています。しかし、まだ、感覚的にその効果を捉えていただけで、それがキャラクターの心象を描くための自分の得意技であり、ハッキリと形として自覚してはいなかったのではないかと思われるのです。なぜなら、次の「星を追う子ども」ではストーリー性の高い作品を目指したのか、それまでの特徴であった、ナレーションを廃し、完成度の高い作品となりましたが、背景による心象表現の効果は非常に薄く、それはジブリの作品と瓜二つのものでした。 

 

 動的環境の表現=緻密な書き込み、動く背景、光と音の演出 

 なぜそうなってしまったかというと、「秒速5センチメートル」までの作品はSFチックなものが多いのですが、それはあくまでも現代社会を土台とした物語でした。しかし、「星を追う子供」は異世界を舞台としたファンタジーです。それまでの作品と比較すると物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離が大きすぎるのです。実はこれが監督の得意技の効果を薄めていたのですが、また、監督はこの作品では意図してその技を質的に半減させていたのかもしれません。そのせいで、監督は自らの得意技の明確な形とその効果を自覚したのではないかと思うのです。では、なぜ物語世界と鑑賞者の日常環境との乖離がおおきくなりすぎると、監督の得意技の効果が薄まってしまうのか、それは監督の技が私達の日常に非常に近い反映の上に成り立っているために、異世界が舞台では効果が出にくいということと、そのためにこの「星を追う子ども」とその前までの作品では技の使い方が違うのです。それは背景の動きと光と音の使い方にあるのです。 

 ここまで、背景という言葉をキャラクターの住む物語世界の環境における静的視覚情報、つまり背景映像の一瞬を切り取ったそのあり方に限って使ってきました。しかし、映画の背景とは静的な映像に限りません。背景や光が動くということとそこに重ねられる環境音はその場の環境をより立体的、過程的に表現します。映画が動く写真として生まれた時、それを観た人々は映しだされた人物よりも背景の木々の枝が風に揺れ動くのを観て驚いたという話も残っています。実は監督の得意技は背景の描き込みの緻密さだけではなく、その背景が動くこと、そしてそこに重ねられる光と音による鑑賞者のより立体的、過程的な観念的世界の創像にあるのです。 

 ジブリ作品の特徴は背景が緻密でさらに動くことですがそれ以上に深海監督の作品は背景が緻密で動きが多いものです。特に深海監督は演出として動くものを背景に取り入れることがより多いように思います。たとえば木々の枝が動くことで風や空気感を表現することはもちろん、雨、雪、降り落ちる桜の花びら、流れる雲、そして走る電車。また、そこに重ねられる光と影、雨には雨滴の輝きや水たまりのさざめき、ゆっくりと落ちる雪にはグレーの空気感、桜の花びらには輝くような木漏れ日、朝や夕には窓から入り込む直線に縁取られた斜めの光が立体的な輝きを放ちます。そしてそこに適切な環境音が重ねられます。この事によって鑑賞者はより強く作品世界に二重化できるのです。まるで日常世界の延長のようにです。 

 私達の認識は五感覚から得た情報で立体的に構成された像です。この五感覚の情報には必ず感情が付随しています。このような認識(一般的にはいわゆる表象)と感情との関係を表現者(これも一般的にはいわゆるアーティスト)は感性的、経験的に体得しているものですが、新海誠監督は論理的に理解してはいなくとも具体的に自分の得意技として理解しているようなのです。光や背景が動き変化することで、アニメーションの世界がまるで現実世界のように空気感や感触や匂いの感覚と相まっていきいきと創像されるのです。 

 今、ヒット映画やTVドラマの舞台となった場所をめぐる、聖地巡礼ということが流行っています。「君の名は」でも実在の街が舞台となっていますから、映画の場面と実際の町並みの写真を比較されることも多いのですが、すると、必ず作品で描かれた背景は現実の町並みよりデフォルメされて、広く、明るく描かれています。まるで、私達の子供の頃の思い出の風景が実際よりも大きく輝いているのと同じようにです。以前、監督がTV番組で話していましたが、彼の描く背景は実際の町並みを写実するのではなく、思い出の中の風景を描いているのだと言っていました。これが新海監督の得意技の正体です。別の言い方をすれば、彼の得意技は鑑賞者の日常が舞台であることによってより効果を発揮できるものなのです。 

 今回の作品はこのような条件が全てバランスよく揃った作品であったと言えますし、もちろん物語自体も面白かったのですがこの設定を創れたというのも監督自身が自分の得意技をしっかりと自覚したからではないかと思うのです。今回の物語の下地は自身の過去の作品「雲の向こう、約束の場所」にすでに見られます。この作品のキャラクターの関係性をより現実的な設定の上に作りなおしたのが今回の作品でしょう。この辺でも、監督が自分の得意技をしっかりと自覚したことが見て取れるものです。 

 これまで、新海監督は背景(物語世界の環境)を緻密に描くことに腐心して来ましたが、キャラクターの顔とその表情にはあなた任せのところがありました。キャラクター設定を他の人に頼むことが多かったはずです。監督自身はキャクターの表情を描くことが得意ではなかったのかもしれません。今回の「君の名は」でも作画監督とキャラクターデザインは安藤雅司という人が担当しています。この人はスタジオジブリで「もののけ姫」の作画監督をした人です。しかし、安藤監督の手を借りて、新海監督のこれまでの作品では観られなかったほどにキャラクターは表情豊かに動き回ります。ここも今回の成功の大きな要因でしょう。 この辺のバランスを上手くとったのは、川村元気というプロデューサーの力が大きいのかもしれません。しかし、このプロデュースの力で、非常にバランスの取れたヒット作が生まれたことは確かですが、新海誠監督の得意技を「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」と本作とで比べてみた時、そのこだわりが相当に薄まってしまっているということも確かに言えるでしょう。

 この「君の名は」は特別新しい手法を開発したというわけではありません。しかし、上記のような効果を意図して作品の主な手法として使った監督はこれまでいないでしょう。もっと言えば新海監督のこの得意技はこの作品において影の主役と言っても良いものです。黒澤明監督の雪待ちのエピソードは伝説ですが、実写では伝説になるほどに難しい手法がアニメーションでは見事に統一された世界観として提示できることが可能であると証明できたことでも画期的なことであると言えるでしょう。このことについて、プロの世界でも誰も評価していないのは残念なことです。この点が実践者にもこのように具体的に理解できれば、実写映画においても何らかの形でフィードバックされるかもしれないからです。CGがようやく奇をてらった効果ばかりではなく、現実と想像との垣根を取り払う世界観の統一のために使われ洗練され始めてきたのは明らかですから、その可能性は大きいのです。アニメーション映画の世界と実写映画は正反対の方向からお互いに近づいています。新海誠監督はそれをディズニーやジブリとは違った切り口でまた一歩、近づけたと言っていいでしょう。 

できれば、また得意技にこだわりまくった新海ワールド全開のまるで美術館か思い出の世界で映画を見ているようなそんな作品をまた、期待しています。