映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

火花

普遍的な共感 

 原作は芸人という特殊な世界への興味とそして現役の芸人が書いた純文学でさらには芥川賞を取ったということで注目を浴びたのでしょう。私は未読ですが、しかし、この作品がヒットした真の理由は映画を通して想像できるようです。それは最初に興味を引く“見かけ”に隠れた、普遍的な感情の共有にあるのだろうと思うのです。 

 生きることすら難しい時代にあっては、それだけが目的であっても疑問を持つ余地などありません。しかし、私達はなぜ生きるのか、どう生きるのかを考えなければ生きることが難しい時代に生きています。明石家さんまさんは「生きているだけで丸儲け」という名言を放っていますが、それはあくまでも名言であって、誰にでも当てはまる普遍的なものではないでしょう。彼のように何事かを自身がある程度納得できる形で成し遂げた者だけが言えるセリフです。殆どの者は目的に届かず、または夢が目的に具体化しません。それどころか自分が人生に求める目的などあるのだろうか?と夢や目的を持つことに理由を見いだせないで苦しむ者や主体的に生きることを投げ出してしまう者さえいるのです。 

 なぜ苦しむのでしょう?それは人生がかかっているからです。命がけだからです。「これは面白い!」「これやってみたい!」「これは新しい何かが生まれるかもしれない!」そんなふうに思うことは誰にでも訪れます。「これに賭けてみたい!」そうひらめいたら、次に「ではどうしたら良いだろう?」とひらめきを具体化する道筋を考え始めます。ところが殆どの者はその瞬間から少しずつ、のっぴきならない恐怖が遠くの方から、じわりと迫ってくることに気がつくのです。なぜなら、そのひらめきが大きければ大きいほど具体化することは難しく、そこへ踏み出すには大きな勇気が必要になってくるからです。それはたった一度しかなく、二度と後戻りすることができない自らの人生を賭ける勇気です。 

 特に本作に出て来る芸人はもとより、役者、芸術家、学者、研究者などは人生の一時、激しく打ち込んでみて試してみるということが難しいものでしょう。たいていは人生の半ばを過ぎるまでコツコツと努力を積み上げなければならないのに、それが日の目を見る保証はどこにもないのです。失敗を恐れず自らを信じ続ける信念が成功に導くのだ、とはみんなが知っていることですが、そのように歩みだして望んだ結果を得られるのは本当に一握りの者だけなのもみんなが知っているのです。その恐怖に打ち勝って飛び込む勇気を持てるのは若者の特権でしょう。 

 この映画はその勇気が間違っていたのか?その後の人生をかけた努力は無駄で意味のないものだったのかを問うものです。その答えについては

「そのとおりだ。だから挑戦することは無駄じゃない!」

と、捉えることも

「いや、それは言い訳にすぎない。まったくの無駄ではないが、本来の目的を成し遂げられなかったことをしっかりと認めるべきだ。」

と、それぞれに様々な捉え方があるはずです。

しかし、その様々な考えの底には挑戦した者と挑戦しようと震えている者に普遍的な共感が存在しているのではないでしょうか。 

ハローグッバイ

もう一つの映画らしさ 

 映画の魅力の一つを三浦つとむさんはたしか、その著書「芸術とはどういうものか」の中で、「経験したくてもできない経験をさせてくれる」ことだといっています。そういうとすぐに大災害や戦争など死に結び付く経験やヒーローが大活躍する異世界などを想像してしまいますが、そのような現実には経験したくない経験やあり得ない経験ばかりではなく、もっと身近で現実的でしかし絶対に経験できないものがあります。それは自分以外の他人の人生です。 

 「あの人やこの人はいったいどんな思いで生きているのだろう?」 

 そんな疑問はだれしも持つものです。そして、どんな人にもその人なりのドラマがあるものです。決して波乱万丈に描くのではなく、何気ない、けれどその人たちにとっては大切な心の変化を2時間前後の物語の中に凝縮してじっくりと見せることができるのも、劇場という特別な空間でお金を払って観る映画ならではの魅力です。この作品はそんな映画の魅力にあふれた秀作です。 

 学校では真逆の立場にある二人の女子高生が一人の認知症のおばあちゃんとの出会いから、それぞれの悩みと孤独をぶつけ合い、認め合っていく成長の物語です。 

 「友達って何だろう?」 

 「他人を想うってどういうことだろう?」 

 とは、中、高校生時代にはだれしも考えてしまうものですが、映画は言葉による答えではなく二人の女子高生と一人のおばあちゃんの触れ合いを通して、実感させてくれるのです。 

 

 この作品は地味ですがプロの技が光る作品です。アクションも、スペクタクルもありませんが、一時、日常から離れ、お金を払って劇場でじっくりと鑑賞するに値する、映画的作品です。 

 パンフレットに目を通しても原作は挙げられていないので、オリジナル脚本ではないかと思います。原作のストーリーを無理に凝縮したのではなく、初めから映画として創られた物語でしょう。原作物を否定しませんが、原作があったとしても原作に引きづられることのない作品が良いですね。そして本作のような良質なオリジナル作品がもっと増えてほしいものです。

 私はこの作品をなぜ封切り時に観なかったのか、残念でなりません。 機会があるなら是非にとオススメできる作品です。

Gifted

天才児教育の歪 

 果たして本当の意味においての天才と言うものが存在するのか?という問題はここではおいておいて、物心ついたときにはある分野に人並み外れた才能を示す人々が確かに存在するという事実を前提としてのお話です。ただし、英語におけるgiftという語が贈り物という意味の他に天賦の才能という意味を持つことを考えると英語圏の更にはキリスト教圏の人々の天才についての一般的な認識は自ずと知れるというものですが。 

 この物語はあるシングルの男、フランクと彼と暮らす姪、メアリーの物語です。自殺してしまった姉の娘を預かることになってしまったフランクは姉を自殺から救えなかった後悔からメアリーについての姉との約束を頑なに守ろうとするのですが、この姪は7歳ながら天才的な数学の才能を表すのです。それを知った彼の母親は孫娘の才能を活かすべきだと彼からメアリーを取り上げようと画策します。フランクと姉との約束とは何か?メアリーの選択は?というのがお話の概略です。 

 天からから与えられた才能はそれなりの活かし方がある。というのがアメリカの考え方なのでしょう。実はフランクの自殺した姉というのは将来を嘱望された数学者でした。彼女は普通の人間として育つことのなかった自分の半生に後悔の念を抱いていました。そして同様の思いを自らの母親にも抱いていたのです。

 7歳の少女に一流大学の学生と同様の教育を大人たちに混じってさせることが本人に取って幸せなことなのか?学問の発展のためには個人の人生を犠牲にしてもいいのか?また、まともな人間として育つことのなかったものに学問の発展に尽くすことができるのか?そして、まともに育つための環境とは?ということへの疑問が優しい語り口ながらも問われている作品なのだと思います。 

 フランクはメアリーとの時間を確保するために大学の准教授という立場を捨て、海の近くに居を移し、自宅近くで半端仕事をしています。最初はメアリーを自宅教育していたようですが、彼女を同世代の友達と遊ばせるために小学校に通わせようとするところから、物語が始まるのです。結局、この作品でフランクは妥協策を取ります。メアリーが望むように自分と彼女の愛猫、フレッドとの生活を確保した上で、メアリーには大学での学びを許すのです。ただ、大学での授業を終えたメアリーを同世代の子どもたちが遊んでいる公園へ連れて行くラストシーンはアメリカがこれまで行ってきた天才児教育への反省が見えるようです。人間一般としての教育の過程とその子にとっての一番の教育、つまり、特殊性と個別性とのバランスをどのように取るかということなんですが、これまでのアメリカでは、天才と言われる子どもたちに対しては人間として育つための一般的な教育など無視して、その子の才能の発達に特化した教育を施してきたのかもしれません。またその正反対の子どもたちは無情に切り捨てられていたのかもしれません。そこに反省と変化があり、それがこの作品の成立に繋がったのかもしれません。しかしながら、現在のアメリカの銃犯罪などのニュースを見るにつけ、現状を覆すには相当の努力と時間がかかるのではないか?などと考えてしまうのです。 

 そういう、穿った観かたをしなくても(図らずもなってしまった)親子の愛情の物語としても優しく心温まる作品です。

 アメリカの視点の変化を感じる作品でした。 

ローガン・ラッキー

ラストベルトの人々で描く、痛快アメリカン 

 こういうの久しぶりです。徹底的に娯楽です。でも、アメリカンコミックスやファンタジーではなく、しっかりと現実感との調和が取れた作品。待ってました!と声が掛かりそうです。「映画はこれでいいんだな・・・」という感慨さえ湧いてくる作品です。 

 監督は「オーシャンズ11」シリーズが有名なスティーブン・ソダーバーグで、内容は、大一級のプロの窃盗団を描いた「オーシャンズ11」のコソ泥版です。でも、こっちのほうがずっと面白い! 

 物語は昔、日本でも大ヒットしたジョン・デンバーが歌う「カントリー・ロード」(劇中でも何回も出てきて、地元の人の思いが伝わります)の舞台であるウェスト・バージニア州です。ここはトランプ支持者が多いと評判だった、通称ラスト・ベルトと言われる地域のすぐ近くなんですね。で、出てくる人々がバカばっかりなんです。(私も本気でバカにしているわけではありません。あしからず)ここは映画的な誇張なんですが、アメリカ社会のある部分をおもしろおかしく描くことで簡潔に表現しています。けれど、決して笑いのネタにするばかりではなく、その演出には現代アメリカ社会の歪の中で造られてしまった、そんな人々に対する愛情のようなものまで感じます。「カントリー・ロード」の使われ方、主人公の弟が片手をなくしている経緯やラスト近くの山分けのシークェンスはそんな監督の思いがよく出ています。

 脚本を書いたレベッカ・ブラントという人がウェスト・バージニア州ローガンで、代々地元の炭鉱で働いてきた家庭で育ったということなので当たり前といえば当たり前なんですけど、ここは拍手! 

 盗みの舞台がレース開催中のモーターウェイということもあって、’70代の作品の面影もあり、古い映画ファンには懐かしさもある作品となっています。最後は痛快、大ドンデン返しです。が、それと同時に、ラストシーンは意味深で、シリーズ化の意欲満々といったところでしょう。

 次回作に期待!気分転換には最高です! 

そもそもを辿っておりました。

久しぶりです。

 ほったらかしにしたのは5月ですから、もう7ヶ月になります。何をしていたかというと、映画のそもそもをもう一度辿っておりました。

 簡単に言うと、ある本に感心したのと、憤慨したのが同時だったので、少し自分なりに突っ込んでみようと思ったからなんです。その本は基本的に映画を見る人の立場から解き明かそうとしたものですが、過去の映画の研究は言うに及ばず、言語論や経済学など様々な分野の論説を引っ張り出してきて、その広い分野に対する考察は実に感心してしまいます。が、一方で「ほんとに全部理解して言ってるの?」と疑わざるをえない内容なのです。つまり、その本をいくら読んでも「結局、映画って何?」ということは一読しただけではさっぱりわからないのです。

 これは「自分がバカだから・・・」と認めるのも悔しいし、もともと、映画が好きだったのに加えて「映画は動く写真として生まれた」との三浦つとむさんの言葉に触発されて「映画の発生から発展の過程を踏まえてのその本質と独自の表現形式のあり方を解く」ことが個人的な目的で、その副産物がこのブログでしたから、その本に負けてはならじと、ツッコミ始めたのですが、これが、思った以上の難物でした。で、自分なりの答えが出るのはもう少し先になりそうですが、このブログもほったらかしもかわいそうなので、今年の締めにいくつか、最近観た作品の感想でも書いておこうと思います。

 そもそもからは一旦離れて、気楽にね!

3月のライオン 後編

後編のほうが解りやすい?

 相変わらず、門外漢に将棋そのものの魅力は伝わらないが、プロ棋士の世界の厳しさや対局の激しさは前編より伝わってくるし、人間関係の描き方もジメジメ感が少なくなったように思える。内容的には前作に劣らずドロドロのはずなのに。たぶんテンポと客観性だと思う。 

 もちろん物語映画だから、創作であるし客観性というのもおかしな話だが、創作された物語にも現実世界に準じた世界がある。現実に生きている人間が作者であり、その作者の認識は現実世界という環境によって作られているのだから当然である。まして、映画作品は一般性の高い言語による表現と違い個別性の表現である。客観性が高くなるのは当然なのだ。では、漫画と映画とではどうだろう。 

 本作の原作は漫画である。漫画も画を主として物語世界を表現していくから言語表現よりはずっと個別性が高い。しかし、だからといって物語世界における客観的視点でしか描けないかといえばそうではない。映画よりは比較的に概念性、一般性の高い表現が可能なのだと思う。少女漫画でよくある、突然お花に囲まれて陶酔する登場人物の姿は物語世界における客観視された登場人物ではなく、登場人物の心の目を通して描かれているのは少し考えると解るはずだ。少年の頃、少年漫画は大好きなのに、少女漫画にはどうしても馴染めなかったのはこのせいなのだ。少年漫画の物語世界は主人公の外へと大きく広がっていくのに対し、少女漫画の物語世界は登場人物の心の内側を見つめ、そのつながりに収斂していく。だから少年は少女漫画を理解できない。大人になっても少女漫画の読み方に慣れなければ、なかなか楽しむことは出来ないのだ。 

 本作の原作の手法は後者なのである。私も今ではその違いを理解し、楽しく読めるようになったが、馴染むのには時間がかかった。映画にもその影響が大きい。ここを理解しないと素直に楽しめない人も多いと思う。と言うか、映画では前、後編に分けても、内容に不足感が高い。より正しく楽しみたければ原作漫画を読むほうが良いだろう。 

追憶

昭和の美 

 この作品は鑑賞者を選ぶだろう。物語もそこに登場する人物の描き方もそれほど深いものではなく、今観るとお涙頂戴と映るものかもしれない。だが、この作品はそのように読むよりも心情や背景を観て感じるほうが良いだろう。しかし、そうして観ることで、この作品を「美しい」と思えるのは昭和という時代に青春を過ごした者たちだけかもしれないのだ。 

 私はこの条件に当てはまるけれども、若大将にも寅さんにもほとんど興味がない少年時代を過ごした。劇場映画は時々親が連れて行ってくれた東映まんがまつりや、ゴジラガメラの印象が強い。しかし、当時頻繁にテレビで放映されていたフランス映画やチャプリンヒッチコック作品などはよく観ていたし、私が映画に心を奪われたと思えるのは「2001年宇宙の旅」だった。そして青春時代はアメリカン・ニューシネマとともに過ごしたのだ。だがそんな私でも好みの裏に私を育ててくれた時代の雰囲気が染み付いているものだ。私が観たのは全て、昭和の日本に育った目を通したフランス映画であり、アメリカン・ニューシネマなのだ。だから、この作品を観て「クサイ」とか「情緒的にすぎる」と言いながら、密かに劇場の暗がりで目をうるませてしまう。本当にカットの一つ一つが絵になっている。写真的な美しさではなく、映画的な動的な美しさだ。特にタイトルバックの風景とラストシーンからエンドクレジットへの転換は映像だけで泣けてしまう。 

 この作品の売りはやはり監督、降旗康男と撮影、木村大作のコンビということなのだろう。だから、そこを楽しめる方は存分に昭和の美に泣いて欲しい。