映画そもそも日記

映画のそもそも〜ってなんだろう?をベースにした日記

エール!

障害者に対する気付き 

 主人公のポーラは酪農家の両親と弟の4人家族で、毎日家業を手伝いながら学校に通っている思春期の女の子。彼女の家族は彼女をのぞいて全員耳が聞こえない。現実には大変な話だと思うけれど、ちっとも暗くない、とても明るい希望に溢れたコメディ仕立ての物語だ。 

 家族の中で一人だけ耳が聞こえるポーラは耳の聞こえない家族にとって、健常者の社会との橋渡し役としてかけがえのない存在だ。ところが彼女はコーラスの授業を担当している教師に歌う才能を見出される。ものすごく皮肉な話だ。と、言うと聾唖者を弄くった低劣な話かというとそうではない。これまでの障害者を描いた作品ではなかった、新しい視点に気づかせてくれる。 

 ある日父親は突然、村長に立候補するという。それは無理だという娘に 

オバマは大統領になった。肌の色は障害にはならなかった。」 

「耳が聴こえないのは個性だ」 

と、力説する。ここで鑑賞者は深く考えずに思わずニヤリとするだろう。ところが、ポーラが歌を学びにパリに行きたいと言い出すと母親は 

「あなたが生まれて耳が聞こえると知った時、私はどれだけ泣いたことか」 

「私の育て方が間違っていた。家族を何よりも大切にと育てたはずなのに。」 

「この子は聾唖者の心を持っていると信じていた。」 

と言って猛反対する。 

鑑賞者はこのセリフを聞いた時、心に何か引っかかるのを感じるはずだ。そして父親の言葉も違った色合いを帯びてくることに気付くのだ。これらのセリフは単に強い家族の結びつきを表現したかったものだろうか。母親の涙の意味は何だったのだろうか? 

 私たちはよく障害者を同じ人間だと言う。もちろん、基本的には全く同じ人間同士だ。だが、もちろん違いもある。聾唖者であれば耳が聞えないということだが、この一点で社会的にはとてつもなく大きなハンデを背負うこととなる。ここの矛盾について描いた作品は多い。だが、この作品はもう一つの違いについて気づかせてくれる。それは耳が聞こえないということで作られる心の問題だ。聾唖者には聾唖者の障害者には障害者それぞれの障害に見合った心の世界があるということだ。それは喜びや悲しみのような感情レベルのものと同時に、聾唖者であれば音のない世界で育ってきた世界観そのものも健常者とは微妙に違うのだということだろう。聾唖者の方々がこの作品を見て、これらのセリフに接した時にいったいどう思うのだろうか。またこの違いをしっかりと認めたうえでなければ、障害者を理解することは難しいのかもしれない。この作品は笑って泣けるだけではなく、その大事な視点に気づかせてくれる。では、健常者と障害者が理解しあうことは難しいことなのだろうか? 

 その答えについて、私はこの物語の幸せな結末を信じるほかないのだ。 

ナイトクローラー

現代アメリカ社会映す異常な男 

 評判の作品だったのに観る機会を逃し、ようやくの鑑賞。だから、Yahoo!のユーザーレビューなども何度か読んでいた。そこではこの作品は「サイコパスの話」という見方が多い。公式サイトでは作品紹介のタイトルが 

 

「視聴率至上主義のテレビ業界を舞台に 

アカデミー賞ノミネートの常軌を逸した 

大胆かつ緻密な脚本が、<日常の隣で笑う狂気に迫る>ー」 

 

と、なっている。この作品はこのルイスという男の狂気がテーマなのだろうか? 

 テレビ業界の裏側を描いた話は他にもある。裏では限りなく黒に近いグレーなことが行われていそうなことは、私達素人にもヤラセなどの報道で想像はつく。ただし、実際の有様についてはこの作品がみせてくれるまで具体的には解らないから、それはそれで意味のあることだし、面白みもある。しかし、現実の報道の現場にいる人々がみんなヤラセに走ったり”サイコパス”であるはずはない。土台、サイコパスというものがどういうものか、私にはハッキリとはわからないし、鑑賞者の殆どは私と同じだろう。だから、この作品は一人の特殊な人間の物語なのかというと、それでは作品の狙いが萎縮してしまうし、なぜ報道の現場という舞台を選んだかという意図がアヤフヤになってしまう。作者の狙いは少し違うところにあるのではないかと思うのだ。 

 この物語は一人の異常で特殊な男の成功の物語だ。そういう物語であること自体が特殊であり、異常であるのだが、これが物語として成り立つ社会そのものが異常なのではないかという問いこそが、作者の狙いだろう。作者はこの男を現代アメリカ社会の映し鏡として描いているのだ。 

 冒頭のシーンで主人公は盗みを働いている。それを咎めた警備員はどうなったのだろうか。想像をすると恐ろしいのだが映画はそれを些細なことと言いたげにその後一切触れようとしない。恐ろしさを掻き立てる思い切った構成だ。彼は盗品を売りさばくために持ち込んだ会社に事もあろうにその場で自分自身を売り込む。自分を雇えばどれほどよく働くか弁舌巧みに売り込むのだ。もちろん「盗人は雇わない」の一言でその話はなくなるのだが、ここまでの流れで鑑賞者はこの男がどんな人間なのかを思い知る。異常なほどの自己中心的人間なのだ。 

 この後、この男はその性格を存分に発揮して成り上がっていくのだが、彼を使う女性ディレクターも彼の助手も正常な人間でありながら、彼の側に引きずり込まれてゆく。そこにはもちろん視聴率至上主義という業界体質があるだろうし、個人それぞれを取り巻く状況もあるだろう。しかし、視聴率至上主義が本当に悪いのだろうか?それぞれを取り巻く状況を産んだのは何なのだろうか?この報道番組の視聴率というものが求めるものと現在の個人の状況の両方を創りだした原因とはアメリカ社会の行き過ぎた個人主義ではないのか?この異常な男は現代アメリカ社会の映し鏡であり、異常なのはこの男を必要とする社会のほうなのではないだろうか?

 物語の結末はその問に帰結するだろう。 

ガールズステップ

隠れた宝物 

 青春モノの定番といえば、昔はスポーツが軸となることが多かったが、今やダンス。年配者にとっては多少違和感があるものの、見れば納得。同じことだ。またメニューも同じ、友情と恋。昔とちょっと違うのはスクールカースト。それ何?この感覚だけはついていけない。 

 目標を共有することで仲間、友情というものを知り、恋に目覚める。この辺は昔と変わらない。水戸黄門の基本的には毎回同じ話というのと同様、昔からあった青春モノと同じく涙と友情でハッピーエンド。解っていても結構ウルウル来てしまうから、定食としては良い出来だろう。だけど、それだけ。一時キラキラの青春に幸せな気持ちになって、それで終わりなのだ。なぜなら、観ている方は「こんなことはあり得ない」と解っているからだ。彼女たちが偶然素晴らしい指導者に巡りあうことも、あんなに劇的に友情を結ぶことも、軽々とカーストの壁を乗り越えることも、あの程度のダンスで賞をもらえることも全て現実ではあり得ない夢物語と解っているからだ。しかし、それだけでしかないから悪いことだ、とは言わない。むしろ、そんなあり得ない夢を見せてくれるのが映画の得意技なのだ。 その一時の幸せな気持ちが、明日を生きる少しの後押しになるならそれは価値あることだと思うのだ。

 前回、現実にはあり得ないモノやコトを現実のように見せてくれるのが映画だと言った。それはSFやファンタジーでなくとも同様なのだ。同様に現実にあるけれど自分では体験したくない、または出来無いことも映画では疑似体験させてくれる。オリンピックで金メダルを獲ってみたいと思っても普通はできることではない。なにせ各大会のそれぞれの種目で金メダルを取れるのは世界でたった一人だけだからだ。「死ぬとはどういうことだろう?」とは誰しも思うことだが、普通は実際に死んでみようとは思わない。太宰治の人生に興味はあっても同様の人生とその結末を実際に体験したいとは思わないのだ。しかし、映画はそのような世界を垣間見せてくれる。

 映画は最も感覚的で感性的な表現形式だろう。劇場に入れば暗闇が鑑賞者を現実から隔離し、視覚と聴覚いっぱいに広がる映像と音響は鑑賞者の認識を専有する。鑑賞者は作品世界に支配されることによって、その世界を疑似体験するのだ。理解ではなく体験だから、あらゆる人にわかりやすい。難しい理屈を伝えるのは苦手だが、感動を体験として伝えることができる。その感動とは作品世界を創りだした作者たちの認識を追体験したものだから、取りも直さず人間に感動したということだ。だから若いうちに感動できる映画(人生)にたくさん出会って欲しい。もし、その映画を見終わったあと、それがその人のそれからの人生にいくらかの糧となるのなら、その作品はその人にとっての宝物となるのだろう。若いうちなら生涯の宝物となるかもしれない。そんな作品であれば、いくつになっても巡り会いたいし、そのような作品を生み出す創り手の皆さんを私は尊敬しているのだ。

 この作品は物語に登場する彼女たちと同世代の鑑賞者には今年の隠れた宝物になるに違いない。 

<参考文献> 三浦つとむ著「芸術とはどういうものか」

アントマン

あまり「ニヤリ!」がないスーパーヒーローコメディ 

 笑えるヒーロー物という新しい形の作品だけど、実はそんなに笑えない。笑えないようなシリアスな場面が出てくるというのではなく、そんなに面白い場面がないのだ。つまりちょっと中途半端なのだと感じた。もともと特撮モノは映画の得意分野の一つであるはずだ。現実ではありえないモノやコトを現実のように見せてくれるのは今のところ映像表現の独壇場だ。ならば、その特徴を最大限生かして欲しいのだが、この作品で新しく面白い見せ方といえば、小さくなったり、元に戻ったりしながらのアクションだけ。これはこれで「なるほど!」と思うのだけれど、それだけなのだ。 

 

新しさにも欠ける 

 前半で小さくなる仕組みが原子間の密度を小さくすると言っておきながら、クライマックスでのそのレベルでの空間の描き方はどうなんだろう。従来、SFではミクロの世界には実はマクロの世界と同様の景色が広がっているというのが常套手段だった。前半の説明もその理屈に習ったものだろう。だから、そこの見せ方に期待をしたんだけれど、理屈通りでもなく、新しい世界の提示でもなく、単なるなんだかわからないイメージレベルでしかないように思う。日本ではちょっと気の利いた中、高校生なら同様に「?」と思うだろう。また、この設定の面白さを使っての笑いを工夫しても良かったのではないかと思う。ラストでの巨大蟻やおもちゃの機関車は少しニヤリと出来たけど、でも、せっかくのおもしろ設定なのにこれだけではつまらない。画面もなんだか暗い。もうちょっと弾けても良いのではないかとも思う。製作者の頭のなかには、ディズニーとの違いやMARVELのカラーを出すことがあるのかもしれない。やっぱり、この分野は日本に期待したほうが良いのかな。日本もまだまだなんだけど、とにかく鍛えられた鑑賞者には恵まれているのだから。 

シャーリー&ヒンダ ウォール街を出禁になった2人

経済問題ではない 

 邦題だと経済問題を扱った作品だと思ってしまうが、これはあくまで2人のおばあちゃんを追った作品である。原題の「Two Raging Grannies」はそのものずばりだ。だいたいが、ここでおばあちゃん2人が気付く、経済の根本的な問題、「経済活動とは何か」と「永遠の経済成長は可能か、それは必要なのか」という2つの問題は、世界最高レベルの経済学の先生方にも未だに解けていない問題だと私は理解している。当然この作品がその答えを提示することなど出来ないし、現にしようとしていない。問題提起のみで終わっている。だから、このパワフルなおばちゃん2人に比べて学者や学生、企業のトップ、その他経済の専門家たちの不甲斐ないことと言った風にこの作品は描いているが、それはこの監督がこの経済の根本問題の難しさのレベルを全く解っていないからできることだろう。そしてこの作品の本題はおばあちゃん2人の生き方であり、その行動力だ。だが、正直に言うと底が浅いと言わざるをえない。普段、真面目に経済の問題を考えている人たちにとっては経済問題を扱った作品としては観る価値はない。 

ドキュメンタリーとは 

 ドキュメンタリーは事実そのものを伝えるものではない。作者が捉えた事実のある側面が表現されたものだ。特にカメラという機械を使った表現では当初、カメラが対象をありのままに記録したように見えるために事実そのものを記録する表現形式と考えられていた。映画もまた動く写真として生まれたのである。しかし、次第に写真も映画も事実を記録するのではなくカメラという機械を使って撮影者が捉えた世界を再現するものであるということが解ってきた。カメラは事実を写す道具なのではなく、作者の捉えた世界を映すための素材を記録する道具だったのだ。だから、この作品も現実のおばあちゃんたちの人となりと言うより、作者が理解した2人のおばあちゃんであると考えるべきである。つまり、ここで説かれる経済問題も2人のおばあちゃんも作者の理解を通したものだ。では、その理解は鑑賞者である私にはどのように追体験されたかといえば、経済問題についての理解は浅く、2人のおばあちゃんはパワフルで面白いがこれも表面的なものとしか私には理解できないのである。 

天空の蜂

感性と論理の調和 

 久しぶりに映画に没入した。社会問題、人間性と娯楽性をこれほど高いレベルで調和して見せたのは邦画では黒澤明監督以来ではないかと思う。テンポ良くスピード感にあふれた演出だが、一つ一つの見せ場がどれも質の高いもので、鑑賞者の心を掴んで離さない。そのくせセリフや小道具の中に滑り込ませた問題提起は底の浅い感情論ではなく、論理的なものだ。だから、言葉を変えれば感性と論理の調和とも言える。この論理性の面から言えば、原作のおかげというと失礼かも知れないが、黒澤作品以上であると思う。 

 一見、原発を問題にしたように見える。しかし、問題は2つだ。原発自衛隊。作品は問題に対して答えを出さない。原発自衛隊という問題には正解などない。あるのは選択だけだ。電気自動車に乗り、「私は環境にも配慮できる賢い市民です。」という人々に「その電気自動車を動かす電力はどのように作られているのですか?」と問いかけているのだ。電気自動車に乗ることを否定しているのではない。電気自動車に乗るのなら、その電力がどのように賄われているのかをしっかりと認識したうえで選択すべきだと言うのだろう。自衛隊についても同様である。戦後日本の平和は本当に9条の存在だけで守られてきたのだろうか?また、9条さえあれば、これからも同様の平和が維持できると断言できるのだろうか?メリットだけを享受し、リスクには沈黙する。それは正常なことなのだろうか?これはこの2つの問題提起に共通しながら、全ての社会問題に対する私達の姿勢を問いただすものなのだろう。この作品で言われた、「本当に狂っているのは誰か?」という問いは重い。必要なのに見たくないものを見ようとはせず、いざ自分の問題として突きつけられると激情に流される。私たちは身に覚えがあるはずだ。 

 娯楽性の高い物語の端々に現れる、避けては通れないはずの問題を考えるきっかけをこの作品は与えてくれる。中学生以上なら全ての人にそれぞれのレベルでそれを与えてくれるだろう。それほどの力を持った作品であると思うのだ。惜しいのは問題提起がセリフと文章(犯人の犯行声明)という言葉に偏っているという点にある。もっと、映像で見せてくれたなら、さらに参ってしまったに違いない。原因は原作が小説であることだろう。小説は言語表現、概念の表現であるからだ。それに対して映画は感覚的、感性的な表現である。言葉のように深く表現することはできないが、映画はそれがアニメであってもひとつの世界観の中で、まるで現実であるかのように目と耳から認識へ強烈なメッセージを叩きつけることができる。堤監督にはぜひともオリジナル脚本で同レベルの作品を作って欲しいと期待するのだ。 

マジック・イン・ムーンライト

好き嫌いで選ぶのはダメ? 

 これだけ寒い日が続くと、もう随分と前の話のように思えてしまうが、お盆休みの最終日にウディ・アレンの「マジック・イン・ムーンライト」を観た。普段、ウディ・アレン物はほとんど見ないんだけど。 

 いつも思うのは、学校の休みの時期は上映される作品が子供向けの作品が殆どとなってしまう。プロの評論家さんたちなら、好き嫌いで作品を選ばず、費用も惜しまず観るというのが正しいのだろうけれど、素人は時間もお金も余裕がない。だから、どうしても作品を選ぶ必要が出てくる。そうするとこの時期は観たい作品がない。それではいけないという反省から、以前に観た「ミッドナイト・イン・パリ」がいつもより自分にとってはマシなほうだったので決心(本当に)したのだ。 

 で、どうだったかというと、ダメでした。作品そのものは悪くはないのだろうし、洒落た構成、演出がキラリと光る作品といえるのだろう。けれど、個人的にダメ。なぜかというと、セリフが多すぎる。特に形容や説明がシツコイくらいだ。それに、登場人物が皆、同じようにおしゃべりばかりなのはどういうわけだ?とりとめのない無駄話を延々と聞かされているようで、途中でイライラしてくる。 

 こういう作品はダメだと言っているのではない。個人的に受け付けないだけだ。こういう映画もあって良いし、演劇ではむしろこういった作品のほうが多い。役者の演劇的技量が試される類の作品だろう。演劇でやれば良い作品と言っているのではない。映画的にきちんと成立している。だが、映像で見せると言うより、役者の演技やセリフ回しで見せる割合の大きい作品であることは確かだろう。その割合がウディ・アレン作品は私にとって大きすぎるのだ。しかし、せっかく観たのだからここは好き嫌いを抜きにして、どのような作品かを自分なりに捉えて置くことが大切だろう。 

 

マイ・フェア・レディ 

 この話、ミュージカルの名作、「マイ・フェア・レディ」の変化技だろう。決してパクリではない。これだけ設定が違えば、もう別の話だ。けれど、ラストで元ネタバラシをやっている。なぜそんなことをするのだろう。何か意味があるのだろうか? 

 「マイ・フェア・レディ」はジョージ・バーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」を原作としたブロードウェイの大ヒットミュージカルだ。オードリー・ヘップバーン主演で映画化もされたが、本作のラストでの元ネタバラシではこの映画版「マイ・フェア・レディ」と相似形の演出をしている。元ネタはスリッパで本作はニセのラップ音という違いだけ。両方見た人はすぐにわかる。 

 物語は話し方を教えて生計を立てている音声学者で言語学者のヒギンズ教授が自分の手にかかればロンドンの下町の無教養な花売り娘イライザを半年で一流のレディに仕立てることができると自慢する。同じく言語学者でもあるピッカリング大佐は、それが本当に成功したなら彼女の授業料は全部自分持ちという賭けをヒギンズ教授に持ちかける。賭けはヒギンズ教授が勝ち、彼女は舞踏会でも一流のレディとして振る舞えるようになる。イライザは次第に教授に惹かれていくが、自分も努力して一人前のレディとして振る舞えるようになったのに、未だに自分をまともな人間として扱わないヒギンズ教授に腹を立て、出ていってしまう。当初、賭けのために彼女を教育していたヒギンズ教授も彼女に出ていかれて自分も彼女に好意を持っていたことに気付く。 

 さて、原作の「ピグマリオン」という題名はギリシャ神話に登場する、自ら彫刻した女性の像に恋をする王の名だ。原作では教授とイライザは結ばれない。しかし、舞台版や映画版では観客の好みを考慮して二人が結ばれることを暗示した終わり方となっている。自ら教育した女性に好意を抱いていくような状況をピグマリオンコンプレックスと呼ぶらしいが、原作は二人が結ばれない結末を選んでいるということだ。 

 間違えてほしくないのは、この物語のイライザがどんなに教育しても(当時考えられていた)一流の女性には成りえないということを言っているのではないだろうということだ。教授は粗野な話し方や態度に隠れたイライザの内面の素晴らしさに知らず知らずにひかれていったのだ。その彼女の内面の素晴らしさが自らの教育によって光り輝きだしたにも関わらず、元の粗野な彼女のイメージのままにそれを認めなかった。彼女の成功は自分の教育があってこそであり、教授自身の実力の反映であるとしか考えなかった。それが間違いだったと気づいた時にはもう遅かったというのが原作の結末だ。ここには個人の本質は生まれや育ちにかかわらず、環境や教育によって作られるものという考え方が前提にあると思われる。それはイライザの父親のエピソードにも現れているだろう。彼は無教養にもかかわらず、金持ちへのタカリで培った弁舌をもってアメリカで道徳家として成功してしまう。これはイギリス的階級社会と薄っぺらな教養への皮肉だろう。ところが、舞台版や映画版ではイライザと教授は結ばれてしまうように思われる。この結末にジョージ・バーナード・ショーは最後まで反対していたという。二人が結ばれてしまえば、彼女が教授の教育によって一流の女性となっても、彼女を花売り娘としか見ていなかった教授を認めてしまい、教育の重要性を否定してしまう。それに、一流の女性と言っても、原作では彼女は若い貴族の求婚を受けてしまうだろう。これで、教育によって自立した女性の姿といえるだろうか。この辺りも原作の考えかたを表しているものだろう。彼女の生き方は原作者、ジョージ・バーナード・ショーの階級社会と教育への二重の皮肉であったに違いない。だから結末にこだわったのだろう。 

 では本作「マジック・イン・ムーンライト」ではどうだろう。嘘を真実として生業とする娘占い師ソフィと種も仕掛けもある嘘を生業としているマジシャン、スタンリーの恋物語だ。嘘はそれが真実であると言って初めて嘘になる。嘘やニセモノだと公言していればそれはニセモノとして立派な本物なのだ。 

 で、マジシャンは占い師を教育しないから、ピグマリオンとは関係ないように思える。ただし、彼は彼女に読書を勧め、これからでも変われると説教をするから、ここにも確かにピグマリオンマイ・フェア・レディを意識していることが伺える。マジシャンは一旦は占い師を本当の霊能者だと信じてしまうが最後にはその嘘を見抜いてしまう。しかし、彼はその嘘の後ろに隠れた彼女の素の美しさに魅せられてしまう。つまり、本作での占いという嘘とピグマリオンでの上辺だけの話し方、本作での人を騙すマジックの腕とピグマリオンでの話し方の教育ということを入れ替えてみれば、貧しい境遇で育ち、まともな教育を受けなかった占い師と裕福な家庭で育ち、教養もあるマジシャンとの対比も含めて話の構造はピグマリオンマイ・フェア・レディとほとんど同じなのだ。しかし、ここでは教育や階級社会の問題は小さく退いていて、2つの嘘のあり方の対比が前面に出てきている。ではそれぞれの嘘の下にある二人の本心とはいったい、何を意味しているのだろう? 

 Wikipediaではウディ・アレンは宗教嫌いということらしいし、「ウディ・アレン 宗教」で検索すると彼の実存主義的な考えに基づいたコメントも出てくる(10年前のものだけど)。 

 もちろん、ウディ・アレンが描きたかったのは、そんな小難しいごたくを訴えるための映画ではなく、楽しい一時を観客に与えるロマンチック・コメディだから、そんなことは別にはっきりさせなくても良いのだけれど。だけど、なぜラストシーンでマイ・フェア・レディと相似形の演出をしたのだろう。この物語はマイ・フェア・レディへのオマージュにも皮肉にもなっていないんじゃないかと思う。あれだけセリフを積み重ねながら、おしゃれなロマンチック・コメディでしかない?いや、そうではないかもしれない。が、私には結局彼が何を言いたかったのか理解できないのだ。あれだけ登場人物が訳ありげにしゃべるものだから、何かあるのだろうと思ってしまうのだけれど。もともと彼の作品があまり好きではない私は色眼鏡を外して観ることができないのかもしれない。そんなメガネを外してみれば、もっと素直に彼の作品の魅力を見つけることができるのかもしれない。それで、彼の作品に対する観方が良い方へ変わるなら願ってもないことなんだけど。 

 (けれど、この作品がそうだとは私には解らないのだけれど「ここにはこんなオマージュが作り込まれているし、ここにも、ここにも・・・」というのであれば、参考までには聞いておくけれど、観方は変わらないでしょう。私はどうもオマージュ当てを自慢する一部のマニア向けの面白さにはついていけないのです。そういう面白さもあっていいと思うけど、それは1本の映画作品として成り立っていての話。オマージュ探しのためのオマージュはなんだか虚しい内輪受け、同族相憐れむ感じで好きになれない。好き嫌いではダメですか?)